ふつうのおんな

2008年02月26日(火) ゆらゆら。

つくね、頑張って生きています。

昨日仕事もそこそこに家に帰って私は小屋の前で泣き崩れていました。

とうとう真っ赤な血を少し吐いて、藁を赤く染めたつくねがゆっくりゆっくりと呼吸しながら生きている姿は心臓を鷲づかみにされるような痛みを感じさせます。
私の胸が痛いだけならいくらでも構わない。

だから、せめてつくねの痛みだけはひどくなりませんように。

オットが帰ってきたとたん私は
やっぱり病院に連れて行くべきじゃないか
ぽんずが来てから愛情を注ぎきれていなくて彼らにさびしい思いをさせたんじゃないか
と泣きながら言いました。

金曜の状態で病院に連れて行っても何もしてもらえなかったと解っているけど
いまささみから離すのはいいことではないと思っているけど
言葉にせずにはい入られませんでした。

もう頑張らなくていいよ。
という言葉はつくねに失礼かもしれないけれど、もしちょっとでも痛いとか苦しいとかが酷くなるようなら いっそ もう頑張るのはやめて。
そう祈って願って泣いて。泣いてもどうにもならないのに。

30をいくつも過ぎた大人が手のひらに乗るような小さな生き物の命に心を乱されるというのは、生き物を育てたことのない人には幼い行為のように思われるかもしれません。

だけど、これが生き物を飼うということの最期の責任なのだと痛感しています。

むかし実家でインコを飼っていました。
最初はつがい2羽だったのが子供が5羽産まれ。3羽は脱走してしまいましたが一番早く死んでしまった子も10年以上生きていました。
最期に死んでしまった子は14年頑張りました。
天気のいい日はギチギチとご機嫌な鳴き声でひなたぼっこを楽しんでました。
だんだん止まり木に止まらず床に下りている時間が長くなり。
えさや水を取る量が減っていき、ある日静かに横たわっていました。

小動物というのはそうやって命を終えるものという印象が強かったので、今のつくねの姿は、母の最期をいやでも思い出させるほどそっくりです。
少しずつ、ゆっくりと目の力がなくなっていく姿というのは本当に辛いです。

ささみはまるまると太っていて、いまやつくねの何倍かの大きさです。

がりがりのつくねの上に平気で乗っかって寝ているし、背骨の浮いた背中を毛づくろいしたり自由に過ごすささみ。
つくねがたまに嫌がってのろのろと逃げていますが、まるまったささみに寄りかかってお顔を見せてくれる姿もたまに見られるので、やはり二匹を離せない。

そんな二匹の生活をできるだけ長く
という気持ちと
早くつくねの苦しみが解放されるように
という気持ちがせめぎあっています。

つくねが逝き、ささみもいつか逝ってしまったら、もう二度とプレーリードックは飼いません。


右上がつくねの背中
まるいのがささみの背中

ささみは今でぶちんですが、つくねは子供のときと同じくらいの小ささになってしまっています。

この、上から見ると丸ふたつがくっついて寝ているような姿が大好きで、よく突っついて起こしてました。
今は丸ではなくなってしまったつくねの背中をそーっとなでて別れまでの時間を惜しんでいます・・・。

chick me
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