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『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』
『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』 金水敏 岩波書店
「鉄腕アトム」のお茶ノ水博士の話し方は実際にあるのだろうか?「博士」といわれるような人たちはああいう話し方をするだろうか?という疑問がこの本の発端である。 ― ノーベル賞を取った小柴先生や白川先生(島津の田中さんは若いからこの際除外)はどうだったかと思い出してみると、彼らが特殊な話し方をしていたような印象はない。普通のおじさんだった。
でも、私たちは普通にお茶の水博士の話し方を、そういうものだとして受け入れているし、同じマンガを引き合いに出せば、「エースをねらえ」のお蝶夫人の言葉も、そういうものだとして納得している。
実際に誰もそんな話し方はしないのに、なぜ?というわけで、ヴァーチャル日本語という概念につながっていく。それは類型的な人物造型と密接に関係し、その人物の役割を示す特殊な表現だと著者はいう。役割語か ― なるほどそうかも。
そういう表現が生まれる経緯も面白いし、役割語が一種の差別を助長しているという点も、確かにそうだと同意できる。が、背筋に冷たいものを感じたのは、今我々が普通に使っている<標準語>も明治維新後の臣民に与えられた一種の役割語=文化的ステレオタイプであるということだ。
常々私は言葉ほど民主主義的多数決で決まるものはないと思ってきた。多くの人が便利だと思う言葉は流行語にとどまらず定着する。悪名高い「ら抜き言葉」はその代表だろう。自称正しい日本語の使い手たちがなんといおうが、言葉は変化し続ける。しかし、個々の単語ではなく、大枠の<標準語>という大きな役割語が政府によって、マスメディアを通じて国民に送られ、定着していたのだ。う〜〜む、むむむむむ、気がつかなんだ。これはゆゆしいことですね。
著者の本業は文法である。そのためか、個別の社会言語学的問題にはあまり深入りをしないし、結論を急がないけれども、「役割語」という概念の持つ奥行きは十分に感じ取ることができる。論じる余地がまだまだ広く残されていそうな感も覚える。これからこの分野での論議が活発になると面白そう。
全体的には日常卑近なものから例をとって説明されているので、わかりやすく面白く、かつ懐かしく読める。言葉の好きな人には一読を勧めたい。
★★★
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