書泉シランデの日記

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恋ぞつもりて
2005年01月06日(木)

何もないので、百人一首ネタを。

陽成院

つくばねのみねよりおつるみなのがは 恋ぞつもりて淵となりぬる

陽成院という人は、切れやすくてご乱行。16歳で摂政の藤原基経に退位させられた人だ。狂気の人だったと伝えられる。こいつが一人前にマツリゴトに手を出すようになったら、わけがわからんことになる、とでも思われたのであろうか。退位後は80歳過ぎまでのご長命。

この歌は調べがよくて、結構好きな歌である。意味もろくにわからぬまま小学生のときから知っていた。流行歌を歌うと怒られたのに、百人一首だと許されるというのは、親もろくに解釈できなかったからに違いない。でもそれでいいんです。呪文のように唱えられれば上々。「世の中はつねにもがもななぎさこぐあまのをぶねのつなでかなしも」なんてほとんど溺れている人に救援用のロープをなげる光景とシンクロしていた。

さて、陽成院のこの歌、「つくば」や「みなのがは」にもいろいろ薀蓄があるけれども、それはさておくとして、「恋ぞつもりて淵」というのはいかがなものか?

通常、ここは「ほのかな恋心がつもりつもって、静かに水をたたえた淵のような深い愛になる」と解釈する。でも、陽成院の気質を考えると、「淵」ってなんだか怖くないか?大体、淵といえば、沼や河の主が住んでいるところ。よどんで水の色もほの暗いところ。狂気が潜んでいるみたいじゃない?

歌や句はどんなものであれ現代語訳した途端に干からびてしまう。それなのに、多くの高校では現代語訳が古文の学習であるかのような扱いをする。高校生だって洋楽は原語で歌いたがるし、訳詩がいいとは思っていない。それと同じなのに、現代語訳にして歌を教えたことにするのは教師の怠慢。もっと一つ一つの詞を教えたらどうか。文法にしても、解釈のための文法であるべきなのに、いまや文法的知識をチェックするために古文が存在しているかのような本末転倒状態。作品の魅力を教えないのなら、そのほかの何が教えるに値しようか?

つまらないよねえ・・・。

今度の土曜日はカルタ名人戦・クィーン戦。カルタとりは江戸時代に入ってからのことなので、古典文学とは直接の関係はないのだけれども、競技カルタは格闘技みたいで面白い。西郷名人、クールでかっこいいです。挑戦者は私が思っている人だとすると、まるで逆のタイプ、素朴な兄ちゃんです。女性のほうは誰か覚えていないけれど、男性より表情や態度にいろんなことが読み取れて恥ずかしいくらい。楽しみです。



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