書泉シランデの日記

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年を取ること
2005年11月24日(木)

ある喫茶店の小冊子で顧客から投稿されたエッセイを読んだ。なお、その店は間違っても若者対象の店ではない。題して「加齢の喜び?!」

   「年は取りたくないものだ・・・」そう思う瞬間が少しずつ増えていく
   今日この頃だが・・

という書き出しではじまる。だが加齢と共に好みが変わる、それによって嗜好や趣味の幅が広がる、何か運動をということで、見るのが好きだった「バレエ」を始めた、体の無様さにも若いときと違って耐えられる、とこういう具合に展開し、加齢のある一面を積極的に評価する小文である。ところが最後に「三十路半ばである」と結ばれ、脳天が〜ん、であった。

「三十路半ば」はどう考えてもまだ人生半分未満である。「年は取りたくないものだ」とのたまうにふさわしい年齢とは思えなかった。年取ったなんてナマイキだ〜とどなりたいくらいである。

もちろん「年を取る」感覚は十代であっても存在する。私自身は17歳になったときに寂しい気持ちがしたし、19歳なんて嘘、嘘、というくらいショックだった。だから三十路半ばもわからなくはない。名実ともにオバサンの年齢である。

だが、そんな年をとっくに通過した今振り返るに、30代半ばこそ、世の中がよくわかってきて、それなりに一人前扱いしてもらえる年齢で、多少からだの線がくずれようが、こじわが出来ようが、それに値する大人の力を授かる年頃ではないか。何かを失ったとて、普通の暮らしをする人ならば、生活に支障をきたさないものを失うだけだ。

ひきかえ我が身はどうか?

ついに生活の支障を感じる「老化」に直面している。「目」である。見栄なんか張っていられない。実際見えないのだから老眼デビューして久しい。足腰はまだ何とかいいようなものだが、駅の階段ではたぶん気持ちだけ走っているのである。物忘れも30代の忘れ物と比べれば格段に深刻。白髪も嬉しくはない。

三十路半ばで年を取ったも何もないだろう、と若さゆえの想像力の欠如を非難しつつ、一方で、じゃあ自分は80歳を越えた両親や義母のことが想像できるか、となると黙るしかない。理屈をこえて、その年にならないとわからない感懐が伴うのだろうと思う。人生突き進めば進むほど孤独が待っているんだろうな。結局それが自分の人生ってことなんだろう、ととりあえず40代の想像。



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