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『博士の愛した数式』 小川洋子
2005年12月03日(土)

やっと文庫になった、やっと読むことが出来た。

そういうと大げさだけれど、刊行以来ずっと読んでみたかったのである。が、基本的に小説は新刊で買わないことにしているし(溜まる、かさばる)、地元図書館ではいつも予約待ちだし、そのうちに図書館へ行く足である自転車が壊れてしまうし、カードはなくすし、ずぼらなまま何ヶ月か経過。朝の電車のつり広告で文庫化を知り、早速帰りのエキナカ書店で買った。

小川洋子は好きである。事件や風俗に比較的依存することなく、現実的な虚構を作ることが上手だと思う。

身内に数学をメシの種としている人が何人かいるため、そうでない人に比べ私は数学者に対する尊敬も偏見もないが、「博士」の存在は十分実感を伴うに違いない。エルデシュとかラマヌジャンの逸話を思いながら、こういう人もいるかもなー、という感じである。もっともうちの身内はいずれも平凡な普通の社会人であるが。

作品としては、『密やかな結晶』で描こうとしたものとの近似を感じた。永遠なるもの、純粋なるものの追求ではないか。そして多分、それらは現実世界では「消滅」せざるをえないのだが、「胸の中」には確かに存在し、しかも永遠である。時を越えて受け継がれていくものである。

「28」のことも、オイラーの公式のこともなかなかお見事というほかはないが、「0」のエピソードも非常に示唆的だった。存在しないものを存在させようとする手法は小川の試みにも通じることかもしれない。

エンディングの「ルート」(博士に愛される少年)が「中学校の教員採用試験に合格したんです」と博士に知らされるシーン、結構じーんと来た。そこに至るまでの積み重ねがうまい。

未亡人と博士の過去が十分に作品の感動につながるかというと、そこんところ、やや微妙だと思うけれど、未亡人の存在は作品を成立させるために必要なことは否めない。一方、江夏の持ち出し方はさすがだなあ、である。

日常些事の記憶なんて、80分程度で消去されたほうが、人格の純粋性を保つのにはよさそう。この設定は小説という手法ならではのことだ。「博士」は記憶を保とうと、上着にメモを貼り付けたりしている。そうしなくてはならないことの苦悩には深入りしないまま物語は進むが、まあ、何もかも取り上げていったら、話に収拾がつかなくなるから、私に不満はない。

完全数だの双子素数だの友愛数だのと、ある種の整数にはおかしな名前が与えられている。私なんかはそのネーミングに反応するほうだが、私の周りの数学屋さんたちは、数としての性質だけを問題にして、ネーミングでひっかかることはない。そのくせ、素数なんてものをひどく愛おしく感じるらしく、偏愛していることが端々に感じ取れる。それは文系の私には十分滑稽に思えることだし、小川洋子も「ネーミングひっかかり組」だったから、この作品が生まれたのだろう。

以上、とりとめもなく。文庫一冊\438は過剰にお買い得価格。



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