書泉シランデの日記

書泉シランデ【MAIL

My追加

『漢詩 美の在りか』
2005年12月20日(火)

ある先生の勧めで松浦友久『漢詩 美の在りか』(岩波新書)を読んだ。

前半部はとても面白かった。誰もが知っている4人の詩人、陶淵明、李白、杜甫、白居易をとりあげ、それぞれの詩の個性を指摘する。辞書にあるような無味乾燥な記述ではなく、どの詩句をどのように読むか、という姿勢で語られる。もちろん新書というページの制約があるから、そうそう沢山の事例が取り上げられるわけではないのだが、簡にして要。

続いて主題(友情、戦乱、懐古、飲酒)を中心において、先の四人のものに限らず、おなじみの作品が解説される。そうか、漢詩ってこういう世界だったのか、と、私のような貧弱な知識のものでも、ある程度、全体が俯瞰できるような気がするから不思議である。

その後、リズムの話になるのだが、私には後半はまったくなじめなかった。誤解を恐れないでいえば、牽強付会ではないか。さもなければ、中国語の音韻に理解のないものには判断に迷う記述といえる。このリズム論の先に「文語自由詩」としての訓読漢詩の位置づけが来る。うなずけるところもあれば、首をかしげたくなるところもあって、多分、著者の気持ちはここに相当つぎ込まれているのだけれど、私はついていけそうにもない。部分的にはものすごく共感できるところもあるのだが・・・。

詩に読まれた土地を論じた一章もあるが、ここは単調。

前半は○、後半はなんともいえない一冊。ただし、これを読めば、漢詩の世界が近くなる。

それにしても漢詩なんて高校生には無理だよねえ。今この本に取り上げられている作品の多くには、その昔、大修館の教科書でお目にかかっている。今読むと、なるほどなあ、と思う作品も多いのに、若いときにはさっぱりてんで何がいいんだか、に近かった。

「年々歳々花相似、歳々年々人不同」という句にも、今では結構心を動かされるが−それに気付く詩人の目にも−若いときには、当たり前すぎるのだ。当たり前に信頼をおいていられる年頃と、当たり前といえども信頼はできない年齢がある。加齢とともに当たり前が当たり前として運ばれることに歓びや感動が生まれてくるようになるのでは、と思う。

とはいえ、高校生の時から妙に忘れられないのが「涼州詞」。「葡萄の美酒、夜光の杯」で始める、ああ、あれか、である。沙場でひっくりかえって、古来征戦、幾人か帰るというおじさんには切ないものがある。



BACK   NEXT
目次ページ