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書って歌と同じかも
今日は日に3箇所という展覧会はしご。 「バーク・コレクション」@都美・・・予想以上の面白さ。佳品多し。 「書の至宝」@東博・・・混んでいた! 「歌仙の饗宴」@出光・・・見るべきものは古筆。あとはオマケ。
さすがに3箇所は多かった。図録重かった。バークにも石山切が出ていたので、今日は行く先々で古筆を見たことになる。
思うに、書は歌みたいなものかもしれない。表現すべき「言葉」があって、それをどう再現=表現するか、が問題になる。別に書家が筆をとって書かなくても「言葉」として機能を果たさないわけではない。歌も詞はメロディーがつかなくても、音痴が歌っても「言葉」の伝達は可能である。
しかし、それに何を付加するか?そこに表現の意味があるのではないだろうか。白と黒のコントラストだけでも美しかったりはするが、書き手はただ黒い線を引いているつもりではあるまい。となれば、見る側は、書かれている言葉の意味が理解できなくては「書」を味わうことにはならないのではなかろうか。作品に取り上げる言葉に何を託すか、いかに意味を越えるものを付加するか。
歌も同じである。言葉としての意味がわかってから、初めて表現を問題にすることができるのではないか。言葉の意味がよくわからないまま外国の歌を歌っても表現は稚拙なもので終わるだろうし、単なる聞き手の立場であっても表現者の意を汲み取ることは難しい。
と、一人で勝手に考えて、ふ〜む、私はどっちも好きだなあ、なんて思ってしまう。書けないし、歌えないけれど。
(とはいえ、小野道風の名さえ知らない息子が案外熱心に図録を見ていた。こうなってくると、名品は白黒コントラストの線だけで充分芸術なんかなあ、と思ってしまう。)
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