ことばとこたまてばこ
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2007年02月08日(木) |
おれの携帯に入っていた雑記 |
ゆるゆるなフンドシのことを略して「ゆるフン」と呼ぶという事実を知ったとき、 私は稲妻が脳天へと直撃したかのような衝撃をなんでか受けましてン
世界一の間抜け空間で私は手足をぶるぶるとわななかせて
「音楽のCDジャケットを音無し子が手がけるとしたら」 CDジャケットがどれほど音楽の内容を表しているのかおれは知らぬけれど 現物を見ずして評論が書けるわけがないのだからそれと似たようなものではあろう だとすると音無し子のおれの場合どうなるか。 そこで気づいた。音に色の見える共感覚者と一緒に仕事をすればよいのだ。 その彼に音楽を聴いてもらい、そこから浮かんだイメージや色をおれが 徹底的に理解してから写真を撮る、そんな方法もある。
くちコミ激安店
まったくいやらしいセックス手話本がない 作ろうかな 空話界のアラーキーたれ!なんつって。
「右手を失ったカメラマン」 大部分のカメラのシャッターは右手の人さし指でないときれない 右手でシャッターを押せないために彼はカメラを逆さまにして、 左手の親指でシャッターを押している すべてがさかしまの彼の写真は彼の存在意義が詰まっていると思うがどうだろうか
空白浄土
葛飾北斎 春画風指文字表
かめくった しっぽく ぶくだいた!
言葉 デラシネ 情動
示唆に満ち満ちた表情
バスのシルバーシートに座る足の悪い聾者。
あづまえん
手話通訳者はあくまでも通訳をする人であり、翻訳者ではないのだ。 おれは言葉にこだわる。どうしたって、こだわってしまう。 いや、いや、文化だからこそこだわらなければいけんのだ。 手話と日本語とはまったく別の言語だと皆が口を揃えて言うけれど だったらそこまで気を使ってゆかねばならないんじゃないかな。 手話翻訳者という仕事だってきっとニーズはあるはずなんだ。 例えば聴者がとんでもなく素晴らしい内容の演説をしているというのに、 情緒や間を考慮することなく直訳してしまうのが通訳者であるとすれば 無数の言葉を頭に詰め込み、適切な言葉を瞬時に引き出すことのできる人が 翻訳者と呼ぶべきではないかな。逆もまたしかり。ろう者の見事な手話を 表情のゆがみ、手による空間の間取り、それらを見据えたうえで日本語を 紡ぎ出す。おれの見た限り、通訳者と呼ばれてはいるけれど上記のような 翻訳者となりえている人は確かにいると思っている。正直、そんな方が 直訳をしてて恥とも思わぬ通訳者と一緒にされているのが哀れでならないと思う。 正当に評価されていない、と思う。 それが難しければ手話を文章に書き起こす仕事だけに専門したっていい。 ビデオに撮ってある手話を時間をかけて見たうえで日本語に直すのだ。 つまりは文学的な手話であれば文学的に直すべきであり、愉快な手話であれば 軽快な文章に直すべきであり、男らしい人なら男性的な匂いを濃くした文章で、 女性的なら色香るような文章、中性的な人ならどちらともつかぬような文章、 兎に角タンタンとした一本拍子の文章に甘んじることなかれ、ということなんだ。 しかし手話というのは、その人の表情、佇まい、雰囲気すら含んだ言葉でもあるので、 あまりにもその人でないと語れない言葉であるがため、手話翻訳者一人につき翻訳可能な 人数は限りなく少なくなってしまうことは否めないだろう。 その場合、専属的でもいいから翻訳者自身が天才だと思える聾者だけに絞ったっていい。 それでもいい、とにかくこれは間違いなくだれもやってはいないこと。
言葉を愛するなら同じ言語である手話をも等しく愛してやって欲しい、とおれは思うんだな。
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