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手に届かない、あのブドウは酸っぱいに違いない。
イソップのキツネとブドウに出て来る、これは酸っぱいブドウの機制。 アンナ・フロイトの防衛機制の一つ、合理化機制に含まれる。 防衛機制と言うのは、適応出来なくなった心の状態を何とか適応しよう とさせる無意識の心の踏ん張りだ。
踏ん張りには内向きなのと外向きなのがあり 例えば「昇華」「代償」などは外向きの踏ん張りだ。 爆発しそうな心を褒められる行動にとって変えてみたり、他の事を 頑張ってみたり。
内向きの踏ん張りには「引きこもりや逃避」「退行」などがあるだろう。 内向きとは言え踏ん張っているので、他の機制に変えて欲しいと思っても 中々出来る物ではない。
「合理化」はこれで言うと外向きなのだが、これをしない人は いないんじゃないか?と言うくらいものすごく身近な行動であるから 私は好きなのである。
この酸っぱいブドウの機制は「手に届かないものは価値が無いもの」と 自分に納得させて心のバランスを取る行為だ。 これとセットになった「甘いレモンの機制」は逆に「自分の物となった 物ゆえに価値がある」とやはり無意識に自分を納得させる行為だ。
ブドウは甘く、レモンは酸っぱい。 無意識は判っている筈なのだ。だが それではままならなさに押し潰されて 生きて行くのも辛くなる事だってあるだろう。 人間は心の生き物だ。心のバランスだけは常に取ろうと躍起になっている。
まだ10歳ぐらいの子供のころ、父がこう教えてくれた こっにち来て、レモンの木から教わりなさい 愛なんてものを信じてはいけないということを お前がいつか、愛がこのレモンの木のようなものであることを 知ってしまうのではないかと、心配でしょうがないんだ (PP&M 『レモン・トゥリー』)
この歌ではレモン(愛)がいかに見た目と裏腹に酸っぱいものか お父さんが息子に教える。自分もレモンの機制で失敗しているのかも 知れない。
ところが息子は恋におち、父の言葉を忘れ、手痛い目に遭う。
手痛い目に遭った息子が反省して歌は終わるが、やがてこのレモンは 届かぬブドウへと変わり、新しいレモンが息子の手の中に姿を現すだろう。
人生も甘いレモン。届かぬブドウを追い続けても、疲れて心から駄目に なってしまうに違いない。疲れた心では何も追えない。 それよりは、選んだ道を時には無理矢理にでも肯定して見せる事も 必要だろう。
それが、本当は自分の欲しかった物ではないのだと言う事は 心の奥底に そっとしまっておく。 ブドウはほとんど幻想なのだろうと考える。
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