綿霧岩
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2009年06月09日(火) 『火曜日のごちそうはひきがえる』

昔、子供の頃、『火曜日のごちそうはひきがえる』という本(絵のついた物語だった)が大大大好きだったのである。
その本の存在をずっと忘れていたのだが、最近図書館でそのかえるの絵を見かけてあっ、と思い出したのである。
私はそのかえるの絵がものすごく好きだったのである。
そして『火曜日のごちそうはひきがえる』という題名もものすごく気に入っていたのである。

しかし、その当時私はその本(と絵)に対する自分の思いを「好き」という言葉に結んで自覚していなかった。
ちっとも。

「好きなものは?」と質問されればいくつか答えるものはあったし、日常生活で好きという言葉を使うことも普通にあったように思うのだが、こと『火曜日のごちそうはひきがえる』の本(と絵)に関しては、わたしゃまったく「好き」って言葉とつなげてなかったなあ、と思い返したのである。大大大好きだったのに。
それはなぜか。

その当時の自分の感じは、

その本(と絵)がある→近づく→手に取る→目も手も体全部もその本(と絵)に没頭する→ひたすら没頭する

というような、なんというかそれは、物体×物体の関係のような即物的なイメージのものであって、当時の私にとってそれは「好き」という言葉でくくれるものではなかった。
というかまあ、そんなことは思いつきもしなかった。

今は、それは「好き」だったなあと一瞬にして「好き」という単語にそのときの思いや感じを入れ込んで納めてしまうけれど、でもなんかなんか、そりゃものすごく好きだった、で間違いはないけどでもあのとき、その本(と絵)と私の状態は、単に私の「好き」っていうのだけじゃなくてむしろ私の内側の「思いや感じ」よりも、ずっとずっといっぱいを占めていた立体的な何かがそこにあったように思えるのだ。
そして私はただそこに居たのだ。
そしてものすごく心地良かったのだ。

久しぶりによみがえった思い出なのである。


カタギリミワコ |MAIL