銀河鉄道を待ちながら
鬱と付き合いながらの日々を徒然に

2007年10月20日(土) 第1回「みんな知らない生活保護の話( 1.車の所有)」

久しぶりの日記更新です。

平凡な日常を送っていると、なかなか日記に書くほどのことが起こりません。

平和でいいんですけどね。


---------------------------------------------------------------------

最近というか、このところ生活保護関連の記事が新聞等のマスメディアを賑わすことが多くなっています。

目立つのは、生活保護を巡る行政の不手際に関するものです。

例えば、保護をすべき人を保護せずに結果的にその人が亡くなってしまったことや生活保護費の着服などがそれに当たります。

社会保険庁の年金管理のずさんさが明らかになり、行政、というか公務員不信が広まりを見せていることに関係して、大きくスポットを浴びたのかもしれません。

そんな中、一つおもしろい記事を見つけました。

それは、九州の方で、とある住民団体が「生活保護者の自家用車の保有を認めるべき」という意見を行政に対して申し入れた、というものでした。

今回は、これを題材にしたいと思います。



第1回「みんな知らない生活保護の話( 1.車の所有 )」


生活保護の制度は、日本の社会保障を語る上でとても重要な位置を占めるのですが、一般的にはそれほどなじみのないものだと言っていいと思います。

理由は色々あるのでしょうが、一番分かりやすいのは「生活保護にお世話になることはあんまりないから」という理由ではないでしょうか。

例えば、何かと話題の年金制度なんかは、まず間違いなく皆さんお世話になるものだと思います。介護保険なんかもかなりの確率でお世話になると思います。誰でも年は取りますから。

もっと身近なのは、医療保険でしょう。年齢に関係なく皆さんお世話になります。けがや病気で病院に行くことは当たり前のことです。


それに比べ、生活保護は非常に対象者が限られています。現金、預金、株式、不動産等の資産を持っておらず、働く能力もない人だけです。

厚生労働省の統計では、平成19年4月現在で生活保護を受けている人の数は約150万人(1,526,027人)で、一見ものすごく多いように見えますが、人口の約1.2%に過ぎません。

さて、そんな生活保護の制度ですが、さきほど述べたとおり、日本の社会保障では非常に重要な位置を占めています。

その意味は、「最後のセーフティネットだから」であるとか、「生存権を保障するものだから」である等様々な表現を使うことができますが、今回注目したいところは……

「憲法が定める『健康で文化的な最低限度の生活』とは具体的に何か、ということを表している」

という点です。

これを今回のテーマに結びつけると、「自家用車の所有することは、『健康で文化的な最低限度の生活』を営むのに必要なのか?」ということになります。

さて、どうでしょう?

おおよそ、二つの意見に分かれると思います。

一つは、「今の世の中車がないと何もできないよ」という肯定的な意見。

もう一つは、「車なんかおれだって持ってねえよ。自転車があるだろ、自転車」というような否定的な意見です。

現在、自動車は裕福な家庭だけが持つものではなく、通勤やレジャー、買い物等の日常生活のための便利な移動手段として、非常に広く普及しています。

その点だけを見ると、前者の肯定的な意見が説得力を持つようにも思われますが、もう少し深く考えなければなりません。

本当に自動車がなければ生活していけないのでしょうか?

大都市では交通網が発達し、地下鉄やバスに乗ることによって目的地に辿り着くことは十分に可能です。駐車場が限られ、交通量が多すぎるので、自動車による移動は決して有効ではありません。

大都市とは言えないまでも、ある程度の規模がある都市であれば、大都市のように本数は多くないかもしれませんが、電車やバス等の公共の交通手段が広い地域をカバーしているので、バスと徒歩、あるいはバスと自転車等を組み合わせることによって、行きたい場所へは行けるはずです。

小さな都市あるいは町村では、十分に公共の交通手段が整備されていないことも多いでしょうが、それでも、自転車で一時間も走ればスーパーや病院等に行くことはできるでしょう。

確かに、自動車があれば便利で快適な生活をすることができます。しかし、それがなければ生活できない、つまり他に代替するものがない、という人はまずいないのです。

そして、生活保護は「便利で快適な生活」を保障するものではなく、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するものです。

車が「健康で文化的な最低限度の生活」に必要なものであるとすれば、車を持っていない人は「健康で文化的な最低限度の生活」を送っていないことになります。

また、生活保護を受けている人が車を持つということは、その人の持つ自動車にかかる税金や車検代、ガソリン代まで全てを国民が払う税金でまかなうことになります。

そのことを受けいれることができる人は、ごく少数でしょう。

ですから、どちらかといえば、後者の否定的な意見の方が妥当だと言えます。

実際、件の住民団体の主張に対するネット上での反応は、批判的なものがほとんどでした。


しかし――ここからが重要なのですが――その住民団体の主張は荒唐無稽なものかというと、そうではありません。

ここで住民団体が行政に申し入れた意見の内容の詳細を取り上げたいと思います。それはこういうものでした。

「子供の送り迎えなどで自家用車を手放して公共交通機関を利用することが不可能な場合もあり、車を売却せず活用した方が受給者の自立につながる場合は保有を認めるべき」

彼らは、単純に車の保有を認めろ、と言っているわけではないのです。かなり限定された条件での所有を想定しています。

条件は三つあります。

1.「子供の送り迎えなどで」

2.「自家用車を手放して公共交通機関を利用することが不可能な場合」であって

3.「車を売却せず活用した方が受給者の自立につながる場合」

以上です。

それらの条件から、住民団体がどのような人のことを考えてそのような申し入れしたのが分かります。

まず、「子どもの送り迎えなどで」とありますから、送り迎えが必要な小さな子どもがいる家庭ということになります。

次に、「自家用車を手放して公共交通機関を利用することが不可能な場合」ですが、子どもの送迎が難しいくらいバス、電車の本数が少ない僻地に住んでいる場合が考えられます。

最後に、「車を売却せず活用した方が受給者の自立につながる場合」ですが、そこでの「自立」という言葉は、おそらく「経済的な自立」を表していると思いますので、生活保護を受けている家庭の中に働くことができる人がいないとこの条件を満たしません。

まとめると、こうなります。

「送り迎えが必要な小さな子どもがいて、しかも公共交通機関が十分にない土地に住んでいるので、一家の働き手が働くために車を必要とする場合」

もちろん、働き手以外に子どもの世話をする人が家庭内にいる場合や、周囲に子どもを預けることができる親族や近しい人などがいる場合はそれに当てはまりません

従って、事実上、その条件を満たすのはいわゆる母子家庭か又は両親のうち一人が障害や病気で働くことのできない家庭ということになるでしょう。

ちなみに、生活保護を受けている母子家庭の数は約9万(平成17年度 厚生労働省のデータ)です。その数字から交通が便利な大都市に住んでいる家庭を除き、更に子どもが低年齢である家庭に絞っていくと……その条件に当てはまる生活保護受給者がどれだけ少ないかが想像できます。



その極めて限られた人たちに車の所有を認めることは、生活保護の制度に反しているのでしょうか?

車の所有について、国はこのように定めています。

「『障害者が自動車により通勤する場合』や『山間へき地等地理的条件、気象的条件が悪い地域に居住する者等が自動車により通勤する場合』には『社会通念上処分させることを適当としないもの』として通勤用自動車の保有を認めてよい」

実は、車を所有することは、そもそも全面的に禁止されているわけではなく、場合によっては例外的に認められているのです。

ですから、住民団体の方たちが主張していることというのは、正確には、

「生活保護の受給者に車の所有を認める」ことではなく、

「例外的に認められる場合の一つとして、『送り迎えが必要な小さな子どもがいて、しかも公共交通機関が十分にない土地に住んでいるので、一家の働き手が働くために車を必要とする場合』も含める」こと、なのです。

そう考えれば、その主張がある程度説得力のあるものであることが理解できると思います。

所有する車が不必要に価格と維持費の高いものでないことや収入の額、子どもの預け先や職場との距離、家族の構成、他の代替方法の有無などを十分にかつ慎重に調べることが条件となりますが、私見としては住民団体の意見は受け入れることは可能だと思います。後は行政の運営の問題でしょう。


生活保護の不正受給や職員の生活保護費の着服など、スキャンダルばかりが取りざたされる生活保護の制度ですが、「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かという中身についての深い議論はおざなりになっています。もっと正面から、制度についてマスメディアが取り上げてくれることを期待しています。


 < 過去  INDEX  未来 >


士郎 [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加