おいらの母親って言う人は、今でもかなり変わった人なんですが、 昔からちょっと浮いていると言うか、予測不能なところがありました。 髪型はいつもベリーショートの赤毛パーマ。 身長170cmで夏はショートパンツで買い物。悪目立ちです。 幼なじみではないけれど、同学年だった妻の記憶にも残っていたくらいです。 で、ママさんバレーのキャプテンなどやって、かなり体育系だったのですが、 普段の行動が予測不能なのでした。 母には、プチ家出の癖がありました。 おいらが幼稚園から中学生の間に、何度も消えては戻りを繰り返していたのです。 当時は、どこの家もこんなもんだろうと疑問に感じなかったのですが、 大人になって振り返ると、異常だったなぁと思いますね。
一番大きな家出は、おいらが小学3年位の時です。 (後からの情報で解ったことを綴っていきます) 母は、親父との生活が嫌になり、実家のある大阪に向かっていました。 途中、新幹線の中で知り合った夫婦が、行くところ無いのなら、 家に来なさいと言ってくれ、母はそれに甘え名古屋に行くことにしました。 名古屋の夫婦は薬局を営んでいました。小学生の娘息子が居て、 母は、子供達と仲良くなって、毎朝お弁当を作ってあげながら、 昼間は店番の手伝いをしていたそうです。 母は、「別れ際、男の子に『帰っちゃダメ!』と通せんぼされたのよ」と自慢気でした。 その他にも母は子供達にあんな事してやった、こんな事してやったと、自慢話をしていました。 置いてけぼりになっていた実の子供達が、3ヶ月間どうやって暮らしていたかについては、 まるで興味がない様子でした。 昔から、無神経なところがあったんですよね。 嫌なことは自然と忘れると言いますが、本当ですね。 母がいつの間にか居なくなって、いつの間にか戻っていた記憶はぼんやりと有りますが、 その間家事炊事はどうしていたかとか、細かいところは記憶が飛んでいるんです。 大人になってから姉達に訊いてみても、あまり覚えていないと言っていました。
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あれはおいらが中学生の時でした。 突然母が、おいらに、 「母さん離婚したいけど、お前達が居るからしないよ。みんなが成人したら離婚する」 と神妙に言ったんです。 おいら、それを聞いて(自分達のせいで母は離婚できないで我慢してるんだ・・・) と思い、悲しくなって泣いてしまいました。 別に母が恋しかったからではありません。 あくまで(自分が足かせになっている)と言われた気がして悲しかったんです。 まぁ、母のこの言葉は半分嘘でしたけどね。 母はおいらが18歳の時に家を出て2年後離婚したんだから。 おいらに言わせれば、もっと早く離婚してくれた方が良かったんだけど。 何せ親父と母は仲が悪く、板挟みの子供達は精神的にぼろぼろでしたもの。
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小学生の頃、母は親父の帰りが遅くなって夕飯を母子だけで食べられると分かった日は、 急にテンション上がっちゃて、おいら等達子供も上機嫌でした。 親父は、自分はクチャラーのくせに人の食事マナーにうるさくて、 食事時間は重苦しい空気に包まれて全然楽しくなかったんです。 母は、ここぞとばかりに近所の酒屋でビールとおつまみを買ってきて、 夕ご飯は酒盛りでした。ご飯作らないの。 でも子供達は変に思うこともなく、小学生のくせに当たり前のようにビールを飲んでいました。 特に旨いとも不味いとも感じませんでしたが、 親父が居ないという解放間があって楽しかったです。
高校時代、友人達がカラオケで隠れてアルコールを飲んで楽しく酔っているのを見て、 (酒なんかで盛り上がるなょ・・・こっちは子供の頃から飲んでるよ・・・) と冷めた目でいましたっけ。
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専門学校生の頃、すでに別居していた母のアパートを訪ねた事がありました。 その時、いきなりこんな事を言われました。
「お前は気が弱くて女の子に声も掛けられないだろうから、 幼女に悪戯をして、捕まるんじゃないかってそれだけが心配なのよ…」
おいら、親から真顔でこんな事言われて、そーゆー風に見られていたのかと、 心底情けなくなりました。
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離婚後、母は12歳年下のやさぐれ男と再婚し、数ヶ月で離婚し、 今度は15歳年上の看板屋の社長と再々婚し、数年で離婚し、 下の姉夫婦と同居しましたが、姉と折り合いが悪く、 数年で追い出されるように出ていきました。 風の便りによると、現在は茨城の知人宅にやっかいになっているそうです。 もう5年位会っていません。 最後に会った時は、金髪で瀬川英子にそっくりでした。 まぁ、元気で生きていてくれればどうでも良いんです。 関わったところで得るものは無いのですから。
以上、おいらの変わった母の思い出でした。
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