2005年02月28日(月) |
老いのみち 河合 隼雄 |
現代における「老い」の問題は実に深刻である。それがどんなに大変なことか、ひとつのたとえ話をしてみよう。 町内の運動会に参加。五百メートル競走に出て、必死になって走り抜きやっとゴールインというところで、役員が走り出てきて、「すみません八百メートル競争のまちがいでした。もう三百メートル走って下さい」などと言うとどうなるだろう。最初から八百メートルと言われておれば、もちろんそのペースで走っている。五百のつもりで走ってきたのに、それじゃ話がちがうじゃないか、だれがあと三百メートルも走れるものか、ということのなるだろう。 現代の老人問題はこのようなところがある。人生五十年と教えられ、そろそろお迎えでも来るかと思っていたのに、あと三十年あるというのだ。そんなことは考えても見なかったことだ。昔も長寿の人が居たが、それは特別で、それなりの生き方もあった。ところが今は全体的に一挙に人生競争のゴールが、ぐっと遠のいてしまった。 こう考えると、現代の「老い」の道は、人類が今まで経験していなかったことであることがわかる。みちは未知に通じる。老いの道は老いの未知でもある。
たしか10年以上も前に一度読んだ本である。 日本人の平均寿命が延びる一方で、老いはほんとうに深刻な問題である。私は今、50代半ばだけれど真に「明日はわが身」だと身構えている。 私の親やダンナの親を身近に見てきて心底思う。 私はどう老いていくのだろうか・・と。 願わくば いわゆるコロリ往生したいものである!!
|