2005年11月29日(火) |
冬の標(しらべ) 乙川 優三郎 |
情熱はかけがえのない命のように愛おしい。幕末の世に南画一筋に生きようとした武家の娘の数奇なる運命。
主人公は末高明世(まつたかあきよ)という矢立と綴り紙さえあればよいという女性 女は年頃になれば親の決めた家へ嫁ぐのが当たり前とされた時代に、絵を捨て切ることができなかった 夫となった人の早世により家が落ちぶれて、実家に帰ることもままならず姑の愚痴とともに生きていても、絵を離せない 有休舎で一緒に学んだ光岡修理(幼名は小川陽次郎)と蒔絵氏の平吉との三人で書画会を開くが、時代は勤皇だ佐幕だという時代でそれぞれの家の事情もからんでいくなかで自分のほんとうに生きていく道を見つける 絵の師である岡村葦秋(いしゅう)も素晴らしい 明世が筆を進められないと言うと 「憂鬱な日は憂鬱を描けばよい」と泰然と言う
葦秋に出会い、南画に出会ったときから、絵のない人生のあるはずがなかった。父にたわけと否定され、夫に無視されても、絵が生きてゆく支えであった。頼る家も人もなくなり、頼られる立場になってからは、なおさらである。自分ひとりを支えられずに人を支えられるはずがないのだった。否応もなく人も家も暮らしもつきまとってくるから、絵に没頭できる間が救いであつた。 いつのころからか彼女はそういう柵を持たない葦秋を羨み、師であることとは別の意味で敬うようになった。どうして彼にできることが自分にはできないものか。僅か一刻のために駈けずり回る女に比べ、彼は一生をかけて絵とともに歩んでいる。何という違いだろうかと思う。
姑を見送り、子どもも成長して、共に生きていこうと誓った修理があっけなく死んでしまってからは、あの時代ではとても考えられないことだが故郷を捨てて画家として生きていこうと江戸へ旅立つ。 大政奉還という激動の時代で、子どもとともに静かに絵を描いて暮らせる状況になったにもかかわらずあえて自分で漕ぎ出ていく。 子どもの自立を受け入れられない我が身を思い、静かなさざめきを感じる本だった
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