2006年01月02日(月) |
穢土荘厳 杉本 苑子 |
えどしょうごん
穢土━罪悪によってけがれている現世(しゃば) 荘厳━仏像や寺を飾りつけること
華やかに咲き誇る天平文化の裏側で恐るべき陰謀が進行していた。持統、元明、元正ら蘇我氏系の女帝に対し、宇合を中心とする藤原氏が権力奪取を企てたのだ。最大の政敵長屋王襲撃で闘いの火蓋は切って落とされ、血で血を洗う抗争で一気に長屋王一族滅亡へと突き進む。その後、大地震、飢饉、天然痘による藤原四兄弟の死、めまぐるしい遷都、藤原広嗣による叛乱、安積皇子の暗殺と聖武帝はいっときも心がやすまらない。懊悩の果て、遂に大仏建立を決意、天平15年、詔と共に国中の富と民がかき集められ着工された。帝の悩み、実力者達の思惑、民の苦しみ、すべてをのみ込んで仏は巨大な御姿を現してゆくのだ。
大仏建立の鞴(ふいご)踏みの苦痛に耐えかねて、連日、屈強の男奴が幾人も斃れている。それを造った彼らにこそ毘慮遮那仏の救いはもっとも厚くもたらされてよいはずなのに、鞭の乱打と薄い粥しか、連中は現身に享受できない。その上、来世に於ける救済の約束すらおぼつかないとしたら、いったい何を支えに生きたらいいのか
奈良に住んで大仏の存在は知ってはいるが、あの時代の便利な道具など何も無かった時代によくもまぁ、あれほど巨大な仏を建立したものだと改めて驚ろかされる 帝位にいた聖武天皇の懊悩を形に表せばあのような大きさになったとでもいうことなのだろうか
浄土は空のあなたに在るのではなく、めいめいの心の中に求めるべきものなのだ。 ただ、行浄自身の実感をも踏まえて、つくづくやり切れなくなるのは人間の業の深さ、迷妄の種の限りなさだった。振り切った、と歓喜した次の瞬間に、もう新たな愛憎、新たな苦しみに鷲づかみされている人間というものの救いがたなさ・・・・・。仏に成りうる存在でいながら、一生涯、ついにその可能性への憧れだけで終らなければならない事実に絶望して、せめて造形の上でだけでも満たされたいと、聖武天皇は念願したのではあるまいか? そう思って眺めれば、きらびやかに装われた大仏殿が、きらびやかなだけになお、たまらなく淋しいものに感じられてくる。上皇の孤独、人間すべての苦悩の、無限を具象するものとも映るのだ。
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