2006年01月20日(金) |
橘 三千代 梓澤 要 |
2002年の1月にこの本を読んでいて2度目になる
天智、天武、地統、元明、元正、文武、聖武天皇と続いた歴史の流れを読んでいたらどうしてもこの『橘 三千代』の存在を注目しないわけにはいかない 『女帝・氷高皇女』でも 『穢土荘厳』でも、作者は橘 三千代の功績は認めつつもやはり臣下としか見ていない 変な言い方になるけれど読むのが2度目のこの本は、主人公が橘 三千代である だからそこのところをどういう表現にするのか確かめたいと思った 和銅元年に元正女帝が県犬養という姓を改め、橘という姓を名乗ることを許す場面もこの本の先に読んだ『穢土荘厳』では解釈が違った 一般的には三千代の先の夫とのあいだの息子である葛城王と佐為王の兄弟が聖武天皇に臣籍への降下を上表した時の、 橘は 実さえ花さえ その葉さえ 枝に霜降れど 益常葉の樹 と歌われるように 天皇自らが忠勤の三千代を賞したように伝えられている 『穢土荘厳』 では 「にこやかな仮面のかげで、皇統への侵蝕、藤原勢力の伸張を策していたあの、獅子身中の虫ともいえる女に、朕が嘉賞などするはずはありますまい。三千代が自分で橘の実を取り、盃に泛かべて『橘姓をご下賜いただきたい』と押しつけがましく申し出たのです。ただの美称としてならば、何と名乗ろうと勝手だと思い、許してやっただけのことなのに、まるで三千代を、この朕が無二の股肱とでも信頼しているような書きざまをするとは!」と表現している 文武、聖武の父子の乳母だったころの忠勤は認めても、三千代が藤原不比等と一緒になるころからは三千代の存在に脅威を感じていたと思われる 三千代自身もそういう世間の見方はわかっていただろうけれど、今でいうところのキャリアウーマンへの道を歩き始めてしまった三千代としては夢を追い続けたということだろうか
作者あとがきより
天武、持統、文武、元明、元正、聖武━六代の天皇に仕えた後宮女官。そのうちの文武天皇と聖武天皇、父子二代の乳母をつとめた希有なひとでもあります。 飛鳥から奈良へ━。壬申の乱終結から奈良時代前期にかけての約六十年間、華やかな天平文化の幕開けまでは、「日本国」が出来上がった時代でした。天武天皇という偉大な帝王がプランニングした「律令国家」実現に向けて、歴代の天皇と臣下たちが奮闘した時代です。複雑に絡み合った血縁関係、その血の絆を刃で断ち切るような陰謀、帝位継承争い、権力闘争・・・・・。女帝の時代でもありました。持統、元明、元正。彼女は三人の女帝に信任され、「橘」の美姓を賜り、五百人の女官を統率するトップでした。 官廷生活五十有余年。 誇るほどの氏素性をもたない女が、自分の才覚一つでのし上がって絶大な影響力を持つようになり、その死後「正一位」を贈られ、ついに位人臣を極めるところまでいったのです。色香を武器に権力者の寵愛を得てその地位まで昇ったのではなく、もちろん運や巡り合わせはありましたが、決してそれだけではありません。もしもそういうことなら、最後まで勝ち抜けなかったでしょう。 したたかに、しなやかに━。強靭な精神力と柔軟な感性のもちぬしだったのではないでしょうか。それが天賦のものだったのか、それとも自ら培っていったものなのか?
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