2006年02月08日(水) |
落日の王子 蘇我入鹿 黒岩 重吾 |
蘇我本宗家の長子である入鹿がその頃、帰国した留学僧たちから、大唐の律令制について学びとり、それにならった中央集権国家の成立を考え野望を燃やす。 当時 入鹿の父でもある大臣蝦夷は政治権力を一手に握ってはいたが、神祇の最高司祭者としての大王の地位は高く、完全な独裁とはいえなかった。中国の皇帝のような立場を手に入れ、新しい政治体制をつくりあげたいと願う入鹿は、舒明大王の歿後、王位を継いだ皇后宝皇女(皇極天皇)と交渉をもち、聖徳太子の子である山背皇子やその一族を滅して、蘇我本宋家の権力を誇示する体制をかためていった。 だが群臣の間に入鹿への警戒心や反感がつのり、とくに入鹿にたいしてつよい憎しみを抱く中大兄皇子は、蘇我本宗家を倒して強力な新国家の建設を意図する中臣鎌足と結んで、入鹿の謀殺を決行した。後にいうところの皇極4年、645年の大化の改新である。作者は乙巳(きのとみ)のクーデターと表現している。
すこし前に読んだ杉本苑子著『天智天皇をめぐる七人』の中で登場した軽王(入鹿が暗殺されたすぐあとに即位した孝徳天皇)は、天皇の位に執着していないような描写だった 前回読んだこの作者の『天翔ける白日』での、草壁皇子と大津皇子の描写でも感じたことだが、女性作家と男性作家では微妙に描写が違うのだ。 私の読んでいるのは作者の想像による飽くまでも小説である。『日本書記』 を読んだ作者のうらやましいまでの想像力の賜物である。
それにしても 本殿での入鹿暗殺の場面は読み手にもたっぷり想像力をうみだしてくれる素晴らしい描写だったと私は思う。正に手に汗握る場面だった。 いつも感じることだけれど 策を弄して陰謀を成功させた中臣鎌足よりも、確かに横暴だっただろうけれど歴史の表舞台から無理矢理引きずり下ろされた入鹿のほうに私は興味を覚える。
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