神武天皇に始まり、今上天皇に至る天皇家の長い歴史の中で、その歴代の系図から消されている天皇がいる。 元弘元年(1331)、後醍醐天皇から三種の神器を継承し、天皇として一年八ヶ月の在位期間を持ちながら、 その即位を否定された゛幻の九十七代゛光厳天皇である。 幼児から厳格な帝王学を受け、純粋で英明な人柄を讃えられた光厳帝は、なぜ゛廃帝゛とされなければならなかったのか。
舟もなく 筏も見えるおほ川に われわたりえぬ道ぞくるしき
あす知らぬ身はかくても山ふかみ 都は八重の雲にへだてて
゛老僧の滅後、いっさいの法事は無用なり゛ 光厳院はそう遺誡を残された。 ゛遺骸はただ山の麓に埋めよ。墓はいらない。その塚の上に松や柏が自生し、風や雲が折々に往来するのが、 私にはふさわしい。村人が哀れんで小塔を建ててくれるなら、それもよし。火葬もよし。 四十九日の仏事も必要ない。多くの供物、布施をもって、追善供養したなどとは、ゆめゆめ思ってくれるな。 一切空、どこであれ、日常の静かな仏道修行こそが、老僧への何よりの供養である゛
確かに学校で学んだはずの北朝、南朝のことは恥ずかしいくらい何も覚えていない。 両統迭立のはずだったのが、後醍醐天皇の権力への執着からこの光厳帝の悲劇は始まったのだ。 楠木正成、新田義貞、足利尊氏といった武士たちによる権力争いの戦があったことはわかる。 物語の文中では戦による血なまぐさい表現も見られたが、読後感は光厳帝を思わすかのようにとてもキレイという気がしている。 散りしくしだれ桜の霞のなかで琵琶を奏でる光厳帝が朧に浮かぶ。 ただ当の光厳帝は運命にさからわず、胸が痛いばかりで涙の出ない悲しみもあることを身をもって知る。 生きるとは悲しいことなのだ。
文中の西行のうたも私のこころに残った。
身を捨つる人は まことに捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけり
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり
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