正当派の作品と言う感じだろうか 私には文がキレイすぎているように思えて もう少し額田の女としての部分を書いてほしかった 大化の改新後に即位した孝徳天皇の頃から、壬申の乱くらいまでの額田女王のことが書かれているが、私としては宮廷での神儀を司る仕事から退いたあとのことを知りたかった(ただ 壬申の乱のあとの額田のことについては資料はほとんどないらしい) たしか娘の十市皇女が亡くなったあと、忘れ形見の葛野王を育てたはずだから、自然と歌をよすがに生きたであろう額田の晩年に作者の想像力を見せてほしかった ただ 私がとても哀れに思う有間皇子のことが詳しいのはうれしいものだった
「自分はただ一生を歌だけを作って生きて行けばいいのだ」 実際に現在の有間皇子は歌を作るということ以外に、この世で何も望んでいないに違いなかった。 権力の座など、凡そこの皇子からは遠いものである。ただ怜悧聡明な生まれ付きと、先帝の御子であるということと、そして新政に対する世人の批判が、兎角、この皇子に照明を当てる結果になり勝ちなだけのことである。
額田が若し女であり、母であることを自分に許すなら、既にこの時から額田女王は平静な心で一日も過ごすことはできない筈であった。二人の皇女(大田皇女・鵜野皇女)に対する嫉妬もあったし、やがて大海人と若い妃たちの間に生まれるに違いない御子に対して、わが子十市皇女を守らなければならぬ母としての本能もあった。であればこそ、額田は神の声を聞く女としての自分をどこまでも貫かねばならなかったのである。額田は大海人皇子に体は与えたが、心を与えることは自分に禁じていた。そして十市皇女に対しても同様であった。自分の体から出た子として本能的な愛は感じていたが、母親として持たねばならぬ他の一切の感情からは自分を守っていた。少なくとも、そうしようと努めていたのである。
磐白の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む
岩代の浜に生えている松の枝を結んで行くが、身の潔白が証明され、再び還って来る日があったら、この地を過ぎる時自分が結んだ松の枝を見ることであろう。そのような日は果たして来るであろうか、来ないであろうか。
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
家に居れば食器に盛って食べる飯であるが、こうして旅にある身は、いま、椎の葉に盛って食べている。 額田は突き上げて来る大きい感動に身を任せていた。二首とも額田が今までに読んだことのないような優れた歌であつた。 有間皇子はこの歌を生むために、この世に生を享けて来たのではないかと思われるほどの歌であった。額田は山道で小さい椎の葉を手にして飯を口に運んでいる皇子を、海岸で磯馴松の枝を結んでいる皇子を、そうした皇子の姿を長いこと眼に浮かべていた。この世ならぬ美しく悲しい皇子の姿であった。悲運はこの二首の歌を生むために皇子を襲ったのに違いなかった。この歌からひびいて来るものは誰にもそのような思いを懐かせるものであった。歌の心は悲しみで満たされていたが、その悲しみは澄んで凛としていた
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