読書記録

2006年03月27日(月) この世をば      永井 路子


本を読むのが好きというわりには歴史もその時代に生きた人物のこともさまざまな出来事も私は余りにも知らなさ過ぎる
『この世をばわが世とぞ思ふ望月の虧けたることもなしと思えば』 という句のことも、藤原道長のことも知らなかったのだ
でも 鎌足を祖とする藤原氏のことはどうしても好きになれない

奈良時代の政変のように、たちまち兵乱になったり命のやりとりにならないだけ温和になったとはいえるけれどそれだけ、政治が技巧化してきたといえるようだ
天皇とまわりの貴族たちとの駆け引きのような印象を受けた


藤原兼家の三男坊に生まれた道長は、才気溢れる長兄道隆、野心家の次兄道兼の影に隠れ、平凡で目立たぬ存在であった。しかし姉詮子の後押しで左大臣の娘倫子と結婚して以来運が開け、いつしか政権への道を走り始める。
父兼家の死後、関白の地位を道隆が継いだが、その道隆も病死して後も次兄の道兼も疫病で相次いで死んでしまう。持って生まれた運のようなもので一手に権力を握った道長は、幾多の内憂外患に出あいながらも、それなりの風格を身につけ、一種の平衡感覚を発揮して時代を乗り切り、政治も安定する。そして娘の彰子を入内させ、皇子の誕生を待ち望むうちに、その願いもやがて実現し、ついに権力の図式を確立させるのだ。その上、後には娘の妍子や威子をも入内させ、それぞれ太皇太后、皇太后、中宮の三宮を独占した道長は、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の虧けたることもなしと思へば」の歌を詠むといった幸福を味わう。

無常迅速。人の世は何と変りやすいものか。何やら望月の歌じたいが、反語のようにも聞えてくる。

当時の貴族たちは、不安が昂まるほど造寺造仏へ行きつく。出家が病気治療の特効薬でもあったのと同じ理屈で、造寺造仏こそ最高の救済手段であるように思えてくるのだ。かつての奈良の大仏が栄光の象徴ではなく、底知れない不安の虜になっていた聖武、光明の心のよりどころであったと同様に、壮麗な堂宇はこの世に対する不安とおののきの記念碑だったのである。

当時の貴族たちは娘を入内させることにまず血道をあげるが、これは第一関門であって、次々難関が控えている。
すなわち、その娘が何が何でも男の子を産むこと。
そしてその子が皇太子の地位に就くこと。
娘を天皇の後宮に入れる。
その娘が男の子を産む。
その男の子が即位し、外祖父たる自分が摂政・関白になる。
そのどれを欠いても権力は完璧ではないのである。そしてこれまでの歴代の権力者といわれる人々の多くは、たいていこの完璧な「権力」を手にし得ないで恨みを懐いて世を去っている。


女は一様に恋をし、結婚をし、母となると思っていることこそ錯覚なのだ。ある女にとって恋は豊かでも結婚は貧しいときもある。あるいは恋は貧しく、母としてのみのりが豊かなときもある。そして、どの部分も豊かだということはほとんどあり得ず、またその豊かさ貧しさは、ある意味で幸、不幸とも無縁でさえある。


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