この物語の題材である明和事件を知らないのでネットで検索した
この事件は宝暦事件とともに,江戸時代中期におこった最初の尊王運動で,幕府は山県大弐と藤井右門を死罪に処した。山県大弐は甲斐国出身で,敬義派儒者で神官でもあったが加賀味桜塢,および徂徠学派の儒者五味釜川に師事し,1756年(宝暦6)江戸に出て塾を開き,その門下は盛大であった。儒学・神道・兵学などに通じた大弐は,1759年(宝暦9)『柳子新論』を著し,日本の歴史や思想を論じたが,幕府から疑いの目でみられた。大弐の弟子,上野国小幡藩家老吉田玄蕃が,ゆえあって大弐の兵学が幕府を傾けるものと,1766年(明和3)に讒訴し,同志藤井右門とともに1767年(明和4)に処刑された。藤井右門は越中国に生まれ,1745年(享保20)京都に遊学して竹内式部と知り,尊王論を説いた。竹内式部は1758年(宝暦8)の宝暦事件により重追放になり,藤井右門も連坐したが,江戸に逃れて大弐の家に寄宿していた。式部は,のち,右門との関係から,再び罪されて遠島に処せられた。
幕府転覆を諮ったのは山県ではない。砦に隠れ住む竜神一族である。そのことはすでに報告がなされているはずだ。だがこれを公にすれば、墓をみすみす暴くことにもなりかねない。幕府の威信は地に落ち、人心を惑わせるもととなる。 山県一人に汚名を着せてよいものか。助命の動きもあったというが、止めを刺したのは山県が危惧した通り、弟子同士のいがみ合いから発した讒訴だった。弟子の藤井は粗暴な男で、幕府への暴言を吐き散らしていた。穏健派は藤井に反感を抱き、保身のため、山県と藤井に反逆ありと自訴して出たのである。 のちの知ったことだが、山県の辞世は、次のようなものであったという。
くもるともなにか恨みん月今宵 晴を待つべき身にしあらねば
この物語の主人公、芙佐の夫である奥村賢太郎はこの明和事件でどんな働きをしてどんな立場だったのかが、私の頭では理解できないでいる。 この時代だから夫には口出し、口答えせずにひたすら仕えるのが妻の美徳とされるだけに芙佐も自分が負わされたことも話さないかわりに、夫にも事件のことを聞かない。 確かに生きていくうえで知らないほうが幸せなこともある、と最近は思うようになっている。知ればしんどいし、さらにその先が知りたくなってくるからだ。 そういうことを感じさせる物語ではあったようだ。
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