| 2006年06月23日(金) |
天平大仏記 澤田 ふじ子 |
この本を読んで奈良の人間には象徴ともいえる大仏を見る目が更に違った 前に『穢土荘厳』を読んだときにも、大仏建立の底辺で人間扱いをされていなかった奴婢たちがいたことを思っていた
天平十五年、聖武天皇は金銅盧舎那仏造顕の詔を発せられた。卓越した技能をもつ造仏工・天国や当麻呂、手伎をもつ奴婢たちは、その身分を良民に直され、大仏建立に携わることになる。だがこの大事業には、熾烈な政争や陰謀が渦巻き、天国たちに過酷な試練が襲いかかる…。
盧舎那仏完成のあかつきには天国たちを再び、奴婢に戻すという企みがあった。正に地を這うように底辺に生きた奴婢たちの生命をかけさせられた働きがあってこその盧舎那仏の完成である。 それにしても藤原鎌足を祖とする藤原氏の存在とは・・・? 光明皇后もこの物語の藤原仲麻呂も私はどうも好きになれない!!
現代にも通用することとして、社会システムの底辺にはいつの時代も呻吟している人間の姿がある。ただその姿を見ようとするか、しないかという違いがあるだけだ。 今まで知らなかったことを知った時、人間の想像力は他人の痛みを思いやることへと使われる。それは人間に与えられた能力の最も優れたものであるかもしれない。この物語はそうした思いを抱かせてくれる作品だった。
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