| 2006年10月24日(火) |
中納言秀家夫人の生涯 中里 恒子 |
宇喜多秀家は、戦乱の世に、太閤秀吉の信頼を得て、若くして栄達を得、中納言、大老の一人としての地位栄光を掌握した人物だが、一朝、破れて凡ての権力を失い、一流人として、五十余年の後半生を送った悲劇の大名である。 私はこのなかで、人間の幸福というものが、外面ではなく、自分の中にあったことに気づいてゆく、その生き方を描きたいと思った。そして、流人となったその時から、主人公のもっとも人間らしい孤独な生活が始ったと解釈した。 作者 あとがき
加賀藩主前田利家の四女で、太閤秀吉の養女となった豪姫は、幼なじみの宇喜多秀家に嫁ぎ、華やかな女の幸せに包まれていた。が、関ヶ原の戦いに敗れた秀家は八丈島に流され、生きてまた逢うことのない夫婦の、永い埋れ木の日々がはじまった。
前田家が、奥方の臨終の折の心労を慰めるべく、信義を重んじてその後も、代々、米、金子、衣類、医薬品を送りつづけていたことはあきらかだが、宇喜多一族も、代々相続のたびに申し伝え、届け出て、合力を受け継いだ。前田家への信頼は、加賀百万石の富ばかりではなく、大名と流人一族の間の、人間的な愛憐の流露であろうか。
「美しいのう、見せたいのう、誰ぞおらぬかいな」 奥方は、縁に座して、落葉を眺めていた。南の島の八丈にも、紅葉はあろうか。・・・殿は、都路の紅葉の秋を覚えていようか。一葉、また二葉、紅葉のいろが褪せて乾き、いずくともなく飛散してゆく道の辺の、うすらつめたいうら淋しささえも、哀れではなく、あでな、しあわせな秋の色であった。 だが、ただひとりで見る、来る年々の秋色の艶は、なんとむなしく見ゆることよ。 奥方は、秋が去れば永い冬が来る、そしてまた、春が萌え出す・・・そんな思いで、やっとのことで、胸につかえた悲しさで、縁に座っていた。
20年以上も前に読んだことがあったものを読み返してみた。 私も娘に逢えない日々を過ごしている・・・。 豪姫と比べるべきもないけれど、淋しさや悲しさは自分の心の中で折り合いをつけて静めていくしかない。 まさに秋さかり・・・身に染む季節ではある。
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