| 2008年09月08日(月) |
大津皇子 生方 たつゑ |
天武天皇の第一妃、大田皇女(天智皇女)の息子として生れた大津皇子は、母が存命ならば、当然時の皇太子となるはずであったのに、母は亡く姉の大伯皇女も遠く伊勢の斎宮として赴いていた。 母の妹である第二の妃鵜野皇女の息子草壁皇子の存在のために、学問も武道も人望もすぐれた大津皇子は悲劇の皇子の運命を辿らねばならなかったのである。
作者は同じく悲劇の運命を辿った有間皇子をだぶらせながらこの大津皇子を書き進めていったようで、二人の皇子の悲しい運命を私も確かに感じた。 だが 作者はやはり女性らしく 「同じ母より生まれしごとく」 と、吉野の宮滝で、天武天皇と共に誓った日を裏切って天武天皇の御子である大津皇子を刑死させた行為を、怜悧な女帝にしても打ち消しがたい悔いを焼きつかせたと表現している。 ゆえに朝に夕に直視しなければならない二上山に大津皇子の墓を移葬したのも、悔恨によって大津皇子の鎮魂をはかったのではないかと書いている。 母親というものは自分の子供ほど可愛いものはなくて、それは持統天皇も同じであろう。自分の子供よりも甥のほうが優れている・・その事実を作者は認めながらも性善説で物語を書いたのだろうなぁ。
私はこの物語を読む前に二上山にも、その二上山に落ちる夕日が眺められる場所にも行っている。 大津皇子の刑死によって伊勢の斎宮を解かれて帰ってきた姉の大伯皇女が、日々弟の魂を鎮めるべくあの有名な歌(うつそみの人なる我や明日よりは二上山をいろせと我が見む)を詠んだといわれる場所にも行ってきた。これも悲しい歴史の事実であろう・・。
祀られし 悲運の皇子に思い馳す
ふたかみの 水の流れに木漏れ日や
ふたかみの 木漏れ日ひかる そまの道
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