| 2008年10月30日(木) |
奸婦にあらず 諸田 玲子 |
国語辞典によると 奸婦とは悪賢い、毒婦、悪婦とある。 要は女であることを武器に男をたぶらかすということなのか。 この物語の主人公である村山たか女とは 若き日の井伊直弼の思い人であり、それ以前には直弼の兄である直亮の側に上がり、そして直弼と別れたあとには直弼が師とも仰ぐ長野主膳とも関係があった。 でもそれはたかが多賀大社の防人というか密偵という立場ゆえのことでもあった。だが 直弼への思いだけは一人の女のそれであったということだ。 安政の大獄が正しかったのかどうか・・、井伊直弼が桜田門で死ななくてはならなかったことも運命なのか、それは私には分かるはずもないけれど、時たま耳にする「人にはそれぞれ持って生まれた役割というものがある」という言葉が強く私の胸に残るのだ。 それにしても生き晒しとは・・。 『この女、長野主膳妾にして、戌午年より以来、主膳の奸計を相い働き、まれなる大胆不敵の所業これあり、赦すべからざる罪科候えども、その身女子たるをもって、面縛の上、死罪一等を減ず』
大獄が正しかったのかまちがっていたのか、源左衛門はわからなかった。世の中の動きはめまぐるしい。善悪は風に舞う落ち葉のように忙しく、表になり裏になる。だがたとえまちがいであっても、たかや帯刀に罪があるとは思えなかった。凡夫の自分には今の虚しさを表す言葉が見つからない。
今の世に命をかけて守るもの・・体を張って生きていく・・ということの緊張感は薄いが、別な意味では今の時代も生き難いものだ。 だが幕末という特別な時代を生きた人達の生き様もこうした物語を通してみれば、少々うらやましい思いも私はするのだ。
飛鳥川昨日の淵は今日の瀬と 変わるならひを我が身にぞ見る 主膳・辞世
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