| 2009年07月03日(金) |
ひろさちやの「空海」を読む |
弘法大師空海は真言密教の始祖になる。 私は真言にわざわざ密教とつけることをとても不思議に思っていた。
文中に 密教とは、仏のまねをして仏になりきっていく仏教なのです、とあった。 まねしてまねしてまねして、死ぬまでまねし続ければよいわけです。 それができれば、われわれは、結果的に仏として生きられたことになります。
川の流れにたとえれば、川を遡っていこうとするからむずかしいので、川上から水の流れにまかせて下ってくれば簡単というわけです。それが密教の考え方です。
正直 私の頭のレベルではよく分かったような分からないようなそんな気持ちでいる。
のちに袂を分かった最澄とのことも 以前に読んだ物語に比べたらソフトな書き方がしてあった。それも言い換えれば密教なのかと思ったのだ。
最澄のあり方は、川の下に立って川上を眺め、この川を遡ろうとするのです。川を遡ろうとするから、かなりの困難です。 しかし、最澄はその困難を克服しようとする不屈の意思を持っていました。 それに対して空海は、川上から川下を眺める人間です。川上から水の流れにまかせて川を下るのだから、わりと楽です。空海の仏教は、そのような仏教でした。 最澄の仏教は凡夫が努力に努力を重ねて、修行によって仏になろうとするものでした。 空海の仏教は、われわれ人間ははじめから仏であるのだから、赤ん坊の仏が大人の仏に成長すればいいと考える仏教でした。
だが 川上には簡単に行けるのだろうかと・・ふと そんなことを思ってしまった。
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