昭和30年代から50年代に新聞や雑誌のコラム欄に掲載されたエッセイをまとめたものだった。
作者の思いや若かれし日々の出来事や旅の思い出、愛犬や作家仲間のとのことや、そしてご自身が小説として発表された作品のことなどがほんとうにたくさん埋まっていた。 そして表題の『柊の花』だ。 私は柊に花のあることを知らなかった。
小米桜のような小さい白い花で、その花びらは青みを帯びて、めしべは黄色の花粉をつけている。 小さい花が寄り集まって小枝という小枝にまみれるようについて、遠くまで放香を放っている。 いかつい葉のかげに全く目立たない花だが、その香りの高さに毎年のようにおどろく。 (昭和42年11月26日・サンケイ新聞)
いちばん印象に残ったのはやはりあとがきだ。
小説と違ってこちらは素顔なので、素顔というものは自分自身にとってもおもしろいものだ、という発見をする。余所ゆきの顔というものはいつも一応鏡のなかに見ているのでおおよその記憶にあるが、素顔の表情というものは思いがけないものがある。「生きるということ」 の なかにそういうめぐりあいがある。
表題の柊の花の香りに染みながら・・書かれたのだろうか・・と。
男というものが生涯を賭ける政治というもの、事業というもの。 人間が幾世代を経ても繰返す、政治という名においての残虐さ。 政治にも事業にも参加することのできない場所に置かれている女というもののそれをじっと見つめている眼。 女は何も言えなかったし、何もすることはできなかったけれども、じっと真実を見ていた。女に眼があるのは、歴史の真実を見てとるためなのだ、そう思った。
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