読書記録

2010年12月26日(日) うらおもて人生録         色川 武大


 私は麻雀をしないけれど阿佐田哲也という名前くらいは知っている。
この本の著者の別名だそうな。
 いくたびか人生の裏街道に踏み迷い、バクチ勝負の修羅場をくぐり抜けてきた著者が、特に若い人に送る言葉になっている。
 だから内容のほとんどが語りかけているような綴りになっている。


 たとえば、今生まれたばかりの赤ん坊だって、行き続けている以上、親の努力とはまたべつに、運の力も使っているんだな。
 平和な時代に生きていると、まず生きているということが根底にあって、問題はどういうふうに生きるかということだと思うかもしれないけれど、ただ単に生きているということがすでにしてかなりの運を使っている、そういうふうに思う必要があるんじゃないかな。
 だから九勝六敗でも、八勝七敗でも、勝ち越すということが、むずかしく貴重なものになってくるわけだね。生きている、という団塊で相応の運を消費していて、そのうえに、いかに生くべきか、というところで勝ち越しを狙わなければならないのだから。

 討てば、討たれる。
 討たれても、いつかまた討てる。
 これは、若い人が誰でもいつか老いていくくらい確かなことだ。
 苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。
 失敗は成功の因。
 昔の人が、その認識をいろいろな言葉にしているだろう。
 苦あれば楽、楽あれば苦、それじゃどっちにしたって、もとっこじゃないか、というんだがね。
 だから、人生、おおざっぱにいって、五分五分だといったろう。
 でも、これは虚無(むなしさ)じゃないんだよ。原理なんだ。苦と楽は、表生地と裏生地のようにひっついているんだ。
 それでね、苦と楽がワンセットならどっちが先でも同じだ、人生どうでもいいや、ということにはならないだろう。どうせ老いて死ぬのなら、どう生きたって同じだ、ってことにはならない。
 結局もとっこだとわかっているけれど、がんばってみよう。
 この思いの深さが、その人のスケールになるんだ。













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