| 2011年02月02日(水) |
花岡事件の人たち 野添 憲治 |
中国人強制連行の記録
太平洋戦争中に日本国内での労働力の補充のために、まるで村狩り(軍部では兎狩りと言っていたようだ)のように中国人を強制連行してきて、今の大館市花岡で強制労働させた。 食事は一日一回饅頭とごぼうかふきの煮たものが一本だけ。 衣服も支給なしで水の中での土木作業もありで着たきりすずめだった。 最初から寝具もなしで寒い冬でも毛布の一枚の支給もなかった。 常に栄養失調状態で虐待と餓えで死亡する中国人も多くいた。 働きが悪いと花岡鉱山を請け負っていた鹿島組の監督らに殴る蹴るの暴行を受け、他の鉱山に比べて花岡鉱山での中国人死者は抜出していた。 そんな残忍非道な虐待に抗って中国人たちが終戦間近の6月30日深夜に蜂起したが失敗に終わった。
「もはやかれらは、死か抵抗かのいずれかを選ぶよりほかに道はなくなった。それは ”このひとびとがついに奴隷であることにがまんしきれなくなった日” であった」 と、敗戦直後に、花岡鉱山に派遣されて中国人を診断した医師の言葉である。
今、日本と中国との関係は決して良好とはいえないけれど、 あの戦争で日本人が中国でもそして日本の国内においても一体どれだけの非道なことをしてきたのかということだ。 でも私がよく思うのは日本の歴史を考えてみたら遣唐使をはじめとしてはるか昔から日本はどれだけ多くのことを中国から取り入れたことだろう。 今の日本は先進国として威張ってはいるけれど、はるか飛鳥奈良時代は中国が先進国で日本は発展途上国だったのだ。 あの戦前の軍の主導者たちのなかにそんなことを思う人はいなかったのだろうか・・・と私はいつも思うのだ。
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