| 2011年05月11日(水) |
椿の海の記 石牟礼 道子 |
水俣病によって破壊される以前の水俣の自然豊かな情景が作者の素晴らしい表現で綴られている。 作者の幼いころの記憶だそうだが何と感受性の素晴らしい少女であることよ。
解説には、昭和のはじめごろの、急速に没落していく作者の家の暮らしと、周囲の人間関係を中心にして、「ほのぐらい生命線と吸引しあっている」魂のまどろみと半醒の時代がじつにこまやかな筆つかいで書かれている。水俣病を生みだす日本窒素肥料株式会社の姿も、新参のめずらしい会社というかたちで後景にちらちらしはじめているが、もちろんだれひとりそこから吐き出される毒の存在に気づいてはいない、 とある。
この作者は水俣病をテーマにした『苦界浄土』を書いていて、それゆえそれ以前の日本の原風景のようなものを魂のまどろみと評されるのだろう。 しかし、そこには現代の日本社会における人々の生活では想像できないような、人々の心の豊かさが存在していた、ということに気付かされる。現代日本の物質的刺激の多い消費社会とは異なる、平々凡々のありふれた日常の中でも、心豊かに力強く生きている人々の姿が心打たれるのである。
文中の言葉や文章は、しばしば、うららかな春の中空に響く不思議に澄んだ調べのようにも思え、またなまなましく同時に気遠い地中の叫び声のような感じがする、と私が読みながら感じていて表現できない思いを解説してくれている。
人間はたったひとりでこの世に生まれ落ちて来て、大人になるほどに泣いたり舞うたりする。そのようなものたちをつくり出してくる生命界のみなもとを思っただけでも、言葉でこの世をあらわすことは、千年たっても万年たっても出来そうになかった。
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