| 2011年08月22日(月) |
南大門の墨壺 岩井 三四二 |
物語の最期の2行がこの本のすべてを語っている。
明治十二年(1879)、東大寺南大門を修理した際に、屋根裏から墨壺が発見された。墨壺はその形から室町以前のものと推定されているが、どのような理由でそこに置かれたのかは一切わかっていない。
私はそれが 主人公、夜叉太郎のよき協力者であり理解者であった道念が、夜叉太郎の無念の思いを少しでもはらそうと置いたものであると確信するのだ。
平家侵攻で焼失した東大寺を再建すること、それが東大寺番匠・夜叉太郎にとって死んだ母と妹への鎮魂と、己の腕の見せ所だった。 だが 夜叉太郎は人と接するよりは木と話すほうが気が楽で楽しかった。 腕を認められて連、長、引頭と出世はしていくものの、人にあれこれと指図してはたらかせるのは苦手だった。木は物をいわないが、人は文句を言ったり悪口を吐いたり、果ては殴りかかってきたりする。だから人を使う立場の引頭になどならず、長として木だけを相手にしていればいいようなものだが、因果なことに人に使われるのもきらいなのだ。特に自分より腕前の劣る者に指図されるなど、死んでもご免だと思う。まだしも人を使うほうがいい。そうなると、引頭になって人の上に立つしかない。
東大寺の再建は大勧進の重源が推す宋人のやり方と、日本の匠との間で少々溝ができていた。 宋人たちの集まりである本座と、匠たちの集まりである新座との間で揉め事が起こり、それが南大門での事故にも繋がって夜叉太郎は責任をとらされることになった。
そもそも建てる前から、本座と新座のあいだでいざこざが起こりそうなのが見えていたから、年配の引頭たちは、だれも南大門を引き受けようとしなかったのだ。それで一番若い夜叉太郎にお鉢が回ってきた。 そして 南大門の八十尺下に落ちて死ぬ悲劇が起こったのだ。
今後 東大寺に行って南大門をくぐるたびに夜叉太郎のこと、この物語のことを思い出すだろう。
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