| 2012年05月04日(金) |
尾崎放哉 ひとりを生きる 石 寒太 |
種田山頭火と共に『漂泊の俳人』 と呼ばれた尾崎放哉は一高・東大とエリートコースをたどり、保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後漂泊の旅を続け、大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とするも、終の棲みかを求めて小豆島に渡った。 小豆島へは大正十四年八月に来島、西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となるも在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作り翌年四月孤独のまま生涯を終えた。 亨年四十一歳 戒名は大空放哉居士
山頭火も放哉も季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム 感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。
そして山頭火も放哉も、ともに酒によって人生を持ち崩していくのだが、山頭火の酒は暢気でほがらかだったが、放哉の酒ぐせはかなり悪るかった。 「俺は、一高・東大出身、世が世ならば、こんなところにいる人間ではない。それがこうして落ちぶれてしまったのは、世の中が悪い。俺が悪いのではない」 と、人に金銭の無心をしていても最後までプライドの捨てられない性格だった。
昼寝起きればつかれた物のかげばかり
心をまとめる鉛筆とがらす
ただ風ばかり吹く日の雑念
吸取紙が字を吸いとらぬようになった
漬物桶に塩ふれと母は産んだか
咳をしても一人
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