なか杉こうの日記
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きのう本屋でたまたま積み重なっている新刊本を手に取ったのが 石原吉郎詩文集(講談社文芸文庫)だった。帯の「憎むことは 待つことだ きりきりと 音の するまで 待ちつくすことだ」という言葉に惹かれて 開いた、そして目に飛び込んできたのが「酒がのみたい夜」である。 あれ、どっかで聞いたな、このリズム・・・と思ったその歌は 高田渡の歌である。
酒がのみたい夜は 酒だけではない 未来へも罪障へも 口をつけたいのだ
やはり目で見るときと、歌となって聞こえてくるときと、詩の感触はだいぶ違うのだが、それでもこの詩が魅力あることは変わりない。この石原吉郎氏は、太平洋戦争敗戦後、シベリアの収容所で八年間過ごし極限状況を体験した。
まだ途中までしか読んでいないのだが、そして必ずしも意味がわかるわけでもないのだが、その力強いリズムがとても好きである。
おれが忘れて来た男は たとえば耳鳴りが好きだ 耳鳴りのなかの たとえば 小さな岬が好きだ (耳鳴りのうた)
詩の繰り返しのリズムは、たとえばこの方の文章「ある<共生>の経験から」にも現れているような気がする。これは強制労働中に暮らしを共にした鹿野という男のペシミズムの態度について描かれている。
石原氏がここで描く収容所の人々には顔がない。見えるのは彼らの影。手。足である。わずかな食物が入ったひとつの飯盒をいかに二人で食うか。その時、相手は性格もなにも見えない、ただひとつの影、である。(これはわたしのイメージである。)
鹿野という男も、感覚のみ感じられる、影のようである。
まだ途中までなのでうまく感想がかけないけれども、次の詩も好きである。
さびしいと いま いったろう ひげだらけの その土塀にぴったり おしつけたその背の その すぐうしろで さびしいて いま いったろう (さびしいと いま)
この文庫本の価格は1,400円と少々高いが、それだけ内容が得がたいものなのだろう。
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