なか杉こうの日記
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宮本常一氏の「家郷の訓(おしえ)」を読み終わり、こんどは「忘れられた日本人」を読み始めた。 考えるに民俗学あるいは文化人類学の本がなぜ面白いかというと、それは自分がもしストーリーを書くときの素材の宝庫なのである。民俗学の本の登場人物には顔がない。個人または我が出てくる世界ではない。 そうですね、トールキンの「指輪物語」の登場人物のような。そしてそれはいろんな可能性を秘めている。 暗くなった峠を不安げに越えていくときの話。すでに馬に乗って発ったひとたちが峠で待っていてくれて、山中を歩くときには歌を歌えばいいのだ、そうすれば自分の所在を明らかにすることができるし、あとで迷ったときにもどのあたりか見当をつけてもらえる、と老人が話す。
その老人は馬に乗りながら歌を歌うのが何よりすきなのである。宮本常一氏の人々の描写のなかには、こうした、生活をしながらの楽しみがいろんな形で出てくる。テレビはもちろん、ラジオも何もなかった時代である。
ある場所では老婆が月の光の下で機を織っていた。これがなにより気持ちいいのだという。
それはよくテレビなどで紹介する田舎暮らしのよさといったものではなく、「詩」である。考えてみれば「家郷の訓」も、その素朴でうつくしい文体はまさに「詩」である。歌である。彼のふるさとの宮の森を越えてふきくる風の音。どさっどさっと打ち付け冬を告げる波の音。
こういったものを読みながら、いつかしらこれが自分の血となり肉となって、なにか描くときの素材として消化されるといいなと思う。たとえばファンタジーの素材とか。
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