なか杉こうの日記
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2005年09月25日(日) 詩を読む/堅苦しい

詩人の井坂洋子さんは、詩を書く人にたくさんの詩を読むよう薦めている。
これは立ち読みした女性雑誌で見たのである。

わたしは詩というのがよくわからない。石垣りんさんとか茨木のり子さんの詩は好きである。しかし全部がわかるわけではない。
詩集を一冊借りてもほとんどわからないなんていうのもある。中学高校のときに副読本で詩を集めた本を読ませられた。あれは今考えると信じられないくらい恵まれていたと思う。詩の中から自分の好きなものを暗誦して順番に言う、という宿題があった。わたしは尾崎喜八さんの詩が好きだった。

「九月!秋が来たなあ/あの真っ白な夏の雲が爆発して 果てしもなく遠くなった 紺青の空の遥かな高みに 秋は郷愁の歌のように流れている」というところは、気分が空にまで飛翔するような気がした。その部分はちょっと違うかもしれないが今でも覚えている。

先日図書館で山乃口獏さんの詩集を借りてきた。大体において正直ピンとこないのである。石原吉郎さんの詩文集は買った。こちらは、好きだと思った。
寺山修二の「少女詩集」は素晴らしい。ほんとに素晴らしい。タイトルはなまっちょろいが、中身は心を揺さぶられるような詩が並んでいる。
好きで好きで擦り切れるくらい読む、なんて詩集にまだであったことがないのである。

黒田三郎さんは、生活上のやさしい詩を書いた、とその副読本の印象で記憶している。クラスメートのひとりが、彼の詩を暗誦した。それは電車の中で少女の前に老婆だか体の弱い人だかが立って少女は席を譲った。駅についてその人が降り、少女が腰掛けたところがまたまた年寄りが彼女の前に立った。周囲に腰掛けている人は誰も席を立たない。少女は恥ずかしそうな顔をして、でもまた席を譲った。こんなふうにしてやさしい人はいつでもこんなふうな目にあうのだ・・・というような詩だと思った。たしか黒田三郎さんの詩だと思った。

ひとの心のやさしさを歌った詩。クラスメートが暗誦するのを聞きながら、でも、と思ったのを覚えている。今考えると、この詩のように人間性の正面からの肯定みたいな観念が当時のわたしには、そして今のわたしにも多少きれいすぎるように思えるのである。

高田渡さんの歌う「夕暮れ」の詩も黒田三郎さんの詩である。こちらは聞くたびに東京駅の外の張り出したガラス張りのビヤホール(というのかな)を思い出す。わたしが少し遅くなって東京駅まで歩いていくと、丸の内側の煉瓦の駅の建物の外、ちょうどステーションホテルのとなりあたり、既にサラリーマン、OL(この言葉は抵抗があるけど)がいっぱい入っている。外から丸見えである。

この光景を思い出す。夕暮れの詩のように、互いに相手の目を避けながら、という感じでは全くなく、皆楽しそうに飲んでいる。若い女性もふたり向き合ってつまみをかじりながらジョッキを傾けている。

「夕暮れ」の歌でいちばん好きなのが雪の降る日、パチンコをしている男の姿である。ガラスの向こうの「銀の月」を追いかける、というあたりである。

いつか、かじりつきたいくらい好きな詩人というのに出会えたらいいなと思うがそんなことはたぶん、ないだろうな・・・。










あなた堅苦しく考えているんじゃないの
もうすこし気楽に
自由に、と人は言う
しかしたとえば
わたしには
気遣いということが
ぜんぜんできないのだ
この人、今、おなかがすいてるのかな
この人、今、なにがしたいのだろう
夏ならばつめたいお茶
冬ならば熱いお茶
ってなことに
ほとんど気が回らない
だからそんな場面になると
無理やり考えざるを得ないのだ
それで無理をしているのだ
それをひとは
堅苦しい、と言う
だけど
あたしが堅苦しくならなきゃ
きっと人はあたしを
思いやりのない人間
上司らしくない
社会性がないと言うだろう
せめてもの
思いやりらしきものを示そうと
懸命なのだ
あの子は風邪を引いているらしい
あの子は大変だろう
と考えるったって
慣れてないもの
限度がある
だけど
考えようともしないよりはいいでしょう。
マイペースね、と人は言う
ああだけどずいぶんあたしは
神経を使っているのだ


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