なか杉こうの日記
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2005年10月03日(月) みたび宮本常一氏の本。


今晩は信じられないくらい疲れていない。ありがたいことである。
今は相変わらず宮本常一著「忘れられた日本人」を読んでいる。この方の作品はわたしに生きる上での「忘れられた」常識のようなものを教えてくれる。つまり現代はともかく「個」が中心で、いわゆる村落共同体のようなものは、堅苦しい、人を束縛するものという感がわたしにはある。むらの中にいるといつも人から見られ、何をするにも人といっしょ、盆暮れから婚礼、葬儀に至るまですべて地元の人と一緒というのは、わたしにとっては全く馴染みの無いものである。

しかし宮本氏の描くむらの暮らしは、そうした共同体の暮らしそのものがうつくしい。どううつくしいかというと、それは決して美化するものではなく、「個」を極端とする社会と対照的に「共同体」が人間の習性とぴたりとくる社会がある、それは決して人を束縛するものではなく、人はその中で個を伸ばすことができる。

むらから遠く隔たった場所に行って働いても、「あそこに帰る場所がある」と思えることは人の心の支えである。

村人は旅の者が来ると何も言わずに宿を貸した。家族のものと同じ者を食べさせ、お金を取ることもなく一夜の宿を貸しそして送り出した・・・。

共同体の中で人はそれぞれの角がしぜんと取れてくる。テレビもラジオもなく、文字も読めなかった農民の楽しみのひとつは、歌を歌うことだった。宮本氏の祖父がそうだった。祖父は孫を毎日しょいこにしょって山に連れて行った。草を刈らせた。昔話をした。

寝るときにも祖父が毎日、いろんな昔話を宮本氏に聞かせたのだという。わたしは「百姓」というと、とくに封建時代のそれは「カムイ伝」などの印象が強いせいか、虐げられた人々、貧困の人々などというイメージが強かったのだが、とんでもない!ともかく宮本氏の本を読むと封建時代、明治時代の農民がいかに多様でよいものをもっており、革新的であったのかがよくわかる。

そして共同体における農民の暮らしは、今の自分の職場における生き方に通じるものである。「むらの暮らし」から、職場における自分の身の処し方がなんとなくわかる部分もあるのである。

ともかく、ぎすぎすした暮らしをしている人は、宮本氏のこの本を読むときっと体のふしぶしに油をさしたように感じるに違いない。


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