なか杉こうの日記
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2006年05月28日(日) 「ダヴィンチ・コード」

「ダヴィンチ・コード」の本も映画も私は見ていないが、人からあるいはテレビなどでその筋書きを知るにつけて、なんかいやなことがある。キリストについての冒とくかどうかの問題はそんなに気にならない、というかわたしはクリスチャンではないので。

しかしながらいちばんいやなことは、レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその作品を大衆向きの小説と映画に利用したことである。

つまり、大多数の人々が、今後あのモナリザを見るたびにコードのあのミステリアスな筋書きを想像するだろうし、そのミステリーの象徴としてしか考えられなくなるだろうからだ。

あの「最後の晩餐」の絵画を見るたびに子供たちはMだかVだかのきわめて卑俗なアイデアのストーリーと結びつけることだろう。そのストーリー自体はきっとうまく作られたすばらしいミステリーかもしれない。

だけれど絵画そのものに含まれる「天啓」というのかしら、モナリザの不可思議とされる微笑は現実的な「謎」とは違うと思う。最後の晩餐がこちらに引き起こす神秘な感じ、そのわからないままの神秘さがあの、大衆的な筋書きと簡単に結び付けられてしまう・・・。

簡単に言えば「著作権の侵害」である。何百年も前の作品にもちろん著作権などないのだろうが、ダ・ヴィンチはあの世で「あさはかなことよ」とふふん、と笑っているのではないか・・・。

マグダラノマリアとキリストを結びつける概念は、自分には「もしかしてそんなことがあってもおかしくない」と思われる。それはキリストを冒涜するとは思わない。

モナリザの絵が気の毒である。勝手に映画のポスターやキーホルダーや本の装丁に使われて・・・。


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