ずいずいずっころばし
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2004年05月08日(土) 松の花

その昔、父親が突如職場に辞職届を叩き付けてやめてしまったことがあった。

子供三人かかえ、次の転職先もきまっていないのに辞めてしまうなんて短気と片づけるにはおさまらない暴挙だった。

やむにやまない事情があったにちがいないが・・無責任な父親の所業である。

しかし、母は文句一つ、愚痴ひとつこぼさず、父親の財布に有りったけのお金をたっぷり詰めて職探しにでかける父を明るく送り出した。

家庭はこれから逼迫の状況になるだろうに・・なぜそんなことを・・?

気持ちがひしゃげているときに懐まで寂しかったら背筋のぴーんと通った気骨ある男でいられなくなるでしょ…だとか。

やがて父親は日頃の活躍をかってくれていた人のひきで新しい職場につけた。

新しい職場で、父は水を得た魚のように働いた。

本業の他に文芸春秋に小さな文を書いたり、シナリオを書いたり、八面六臂の活躍ぶりだった。しかし、母の慎ましく質素な生活は少しも変わることがなかった。

母は聡明な人だったけれど学問はどれほどなのか考えたこともなかった。

しかし、次姉がアメリカ留学から帰国してじきのある日、姉の留守中にアメリカのボーイフレンドから国際電話がかかってきた。

電話にでた母はちょっと驚いた風な表情の後、見事な英語でしゃべりはじめた。

家中ひっくり返るほどの驚きが駆けめぐったことは言うまでもない。

またこんなこともあった。それは

夏休みに有島武郎の「ある女」を読了し終わった私は、感想を問わず語りに言いかけると「あ、葉子ね」と主人公について語りはじめてびっくりさせられたことがあった。

母は何ものなのだ?

いつも台所をコマネズミのように動き、朝から晩まで休むことをしらない母。

母の手は何年と水をくぐった荒れた手だった。

私は先日読んだ山本周五郎の「松の花」に、かつてないほどの深い感動を覚えた。

そこに「母は何ものなのだろう?」の答えをみた思いだった。

「松の花」は山本周五郎が己の魂をこめて妻の手向けに書いたものだった。

『主人公藤右衛門64歳は古今の誉れ高き女性達を録した「松の花」の稿本の校閲をしていた。そんな折、妻やす女が不治の病で臨終の床にいた。妻の末期の水を唇にとってやった籐右衛門は夜具の外にこぼれた妻の手を夜具に入れ直してやろうとしてはっとする。そのまだぬくみのある手は千石という豊かな禄を得る主婦の手ではなかった。ひどく荒れた甲、朝な夕な、水をつかい針を持ち、くりやに働く者と同じ手であった。なぜこんな荒れた手に?その疑問はやがて解明する。そして籐右衛門は「これほどのことに、どうして気がつかなかったのであろう。自分が無事にご奉公できたのも、陰にやす女の力があったからではないか、こんな身近なことが自分には分からなかった。妻が死ぬまで、自分はまるで違う妻しか知らなかったのだ」』

・ ・の述懐となり、「世に誉められるべき婦人達は誰にも知られず形に残ることもしないが柱を支える土台石となっている」とつぶやく。

これを読んで私は亡き母の手を思い出した。母の手も何十年と水をくぐった荒れた手だった。生前の母にねぎらいの言葉や感謝の言葉をかけることをしなかった父や子供の私。もしかしたらこの『松の花』のように母のことを何も知らないで過ぎてしまったのかもしれない。

一家を背負う父親の存在もさりながら、母という名のもと、その一人の女性の生き様と深い想いを身近な夫や子供がもしかしたら一番知らないのかもしれない。

亡き母のことを知らないですぎてしまったにちがいない・


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