バンク・ナショナル・ドゥ・パリ東京駐在員事務所も、少しずつ事務所らしくなり、秘書も2人になった。 銀行名を日本語にする事になり、女性2人が大張り切りで、ああでもない、こうでもない。 日本語の解らないラボルド氏もジュリアン氏も、これには参加できない。 結局、女性陣に押されて「パリ国立銀行」としたが、多少問題があると謙治は当時から思い、25年過ぎた今でも思っている。 ナショナルには、この場合あまり「国立」の意味はなく、国民とか民衆の意味合いが強いのだと聞いている。 「パリ国民銀行」という案もあったのだが、国立の方が見栄えがするという事になった。 もちろん間違えではない、国の政策により誕生した銀行であり、出資金の大半はフランス国が持ち、フランス大蔵省の管轄下にあった。 しかし、それは、ほとんど同時期に東京駐在員事務所を開設したソシエテ・ジェネラル銀行、クレディ・リヨネ銀行も同じであり、これら3行をフランス三大国立銀行と称していた。 慌ただしく過ごしている間に、クリスマスが近づいていた。 元麻布のラボルド氏邸でパーティをやることになった。 ジュリアン氏、謙治、それに2人の秘書、それらが家族かボーイフレンドを連れて来ても良いのであるが、独身者を除く全員は、家族を連れて行くのは義務であった。 ジュリアン夫妻には、14才、11才、9才の3人のお嬢さんがいて、長女のマリヨンと三女のベアトリスは、お母さん似のブロンドで、将来美人になる片りんを既に見せていたが、 次女のドミニクは残念ながらお父さん似であった。香港にはフランスの学校は無い、子供達はいずれも英国系の学校へ行っていたからだろう、英語を母国語のように話す。 夫人の英語も本物で、ウイットに富んだ会話は、好感の持てる楽しいものであった。 クリスマスパーティーは専ら子供達のためで、ラボルド夫人と謙治が、何日もかけて買い集めた玩具を、それぞれに渡し、ふんだんにケーキを食べる、それだけである。 ホテルオークラにコックとしてフランスから招請されていたミスター ・ルコントが、独立して六本木に小さなケーキ店を出して張り切っていた頃で、彼のケーキはさすがであったが、食べきれないほど用意されていた。 フランス人という民族は、最も人種を気にしない人種で、国際結婚がまだ珍しい時代であったが、フランス人の国際結婚は、フランス人が男の場合も女の場合も盛んに行われていた。 ルコント氏の奥さんも日本人であったが、奥さんは、英語ともちろん日本語を話し、ルコント氏はフランス語しか話さない、「喧嘩が出来なくて良い」というのが、フランス人仲間の専らな噂であった。 日本の正月を理解させるのは容易な事ではない。 ラボルド氏達は、短い日本での経験から、全部の商店が閉まる事など想像出来ないのである。 「フランスのデパートは日曜日には全部閉まるのに、東京のデパートは、月、火、水、木と順番に休む、幾ら正月だからと言って何日間も全部が閉まる訳が無い」と言ってなかなか信じてもらえない。 謙治の心配は、彼らの食料の事であった。 買い置きはしない人達なのだ。30日になって、丸の内のオフィスがほとんど閉まっても、まだ心配はしてないようであった。 青山に「ユアーズ」という平常は午前4時まで開いているスーパー・マーケットがあった。 そこは正月2日から営業する。 必要なものは、そこで買うようにと説明して謙治も正月休みに入った。
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