優雅だった外国銀行

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10 グルメなフランス人?
2005年05月12日(木)

「アメリカ人は大らかだ」とか「フランス人はけちだ」とか人は言う。 謙治は人を人種によって性格別けするのは正しいことではないと思っている。 日本人だっていろいろ居るではないかと。 しかし謙治は、今までの考えが間違っていたのではないかと時々思えるようになった。 アメリカの会社にいた時、その会社が嫌ではなかったが、アメリカ人と日本人の間には明確な線、壁を感ぜざるを得なかった。 その会社が特別であったのだと思いたいが、そうではなかった。 謙治は多くのアメリカ人と接する機会が有った。 大使館でも、何人かの白人達と、中古事務機や外交官ナンバー落ちの自動車の購入等で交渉する機会が有った。 それは白人対有色人で、親切とか不親切という問題ではなかったが、決して超えることの出来ない一線がはっきりと存在していた。 そこで身に付いた白人に対する身の構え方が、ドイツ人の会社に入って見事に吹き飛んでしまった。 そこでは人間対人間なのであった。 謙治はそれを第二次大戦の同盟国と敵対国の違いであると、その時は考えていた。 しかし、フランス人のそれは、どちらでもないと謙治は感じるようになっていた。 そこには確かに日本の風習と比較すると「けち」と思える面が有るかもしれない。しかし、それは風習の違いであって性格の違いではない。 フランス人の中には、ユダヤ人を嫌ったり、ドイツ人を良く言わない人がいないことはない。 特に北フランスの人は、何度となくドイツに占領された経験から、ドイツ人は危険だと教育されているのかも知れない。 だが、謙治の感じているところによれば、大多数のフランス人は人種など意識していないのである。

フランス人は世界一グルメで、主婦は料理に腕をふるい、フランス人の食生活は中国と並んで他のどの民族より優れていると一般に考えられている。 ラボルド氏はよく他人にラボルド夫人の作る料理は、その中でも群を抜いたものであると自慢している。

ラボルド家のメイドの芳子さんは沖縄出身で、沖縄では米軍将校の家族の為に働き、東京に来てからはドイツ人の商事会社員の為に5年ほどコックメイドとして立派にやって来た。 そのドイツ人の家族は、曜日により、お肉の日、魚の日と食べるものが決まっていて準備がしやすかった。 ラボルド氏の家族は何を作ったら良いのか一向に分からない、冷蔵庫はいつも空っぽだしとよくぼやいていた。

ラボルド夫人は相変わらず午前、午後とデパート巡りをしていた。 家のための買い物はとっくに済んでいた筈だが、10時の開店が待ちきれないようにデパートに飛び込む毎日が続いていた。 好きになってしまったNY

瞬く間に日が過ぎ日曜日になった。 先週の日曜日にニューヨークに着いたのだ。 一週間、ナイヤガラへ行った日以外は毎日3万歩以上を歩いたお蔭で、マンハッタンの地理に随分詳しくなった。 どこでも安心して歩ける。 明日は帰らなければならない。 10日間の旅程であったが、あす月曜日に出発すると東京は火曜日なのだ。 10日間もどうするのかと思っていたが本当に短かった。

五番街のセント・パトリック教会の前を歩いていると、ドラムの音が聞こえて来た。 ニューヨーク市警のパレードである。 時計を見ると10時少し前だ。 太鼓を叩くグループ、4人の旗手達、そして、かなりの数の制服警官達。 身長がばらばらである。 高いの、低いのがばらばらに並んでいる。 足並みもそれ程揃っている訳ではない。 明らかに退官してかなり過ぎた幾分背が丸くなった年長者も制服を着て列に加わっている。 謙治がちょっと手を挙げると、老人も控え目に応えてくれた。 子供も混じっている。 お父さん警官に付いて来たのだろうか手を繋いでいる。 後ろの方に、ぞろぞろと民間人が連なっている。 男も女も子供も、嬉しそうに行進している。 歩道から加わる人がいる。 謙治は嬉しくなって自分も加わろうかと思った。

五番街は、北から南に下る一方通行である。 行進が予定されていた事なのか、毎週の行事なのか知らないが、交通規制はしてなく、行列の後ろには車がひしめいていた。 一般車両は、左右のストリートへ消えて行くが、路線バスはそうは行かない。 5台、6台と次第に溜まって来るバスは、日本のバスの様におとなしく並んではいない。 どうせ前へ行けないのであるが、右往左往している様は滑稽であった。

ブルーミングデール・デパートの帰りにプラザ・ホテルの横を通ると。 又しても警官が大勢居る。 プラザ・ホテル前の広場にデモの準備をしているらしいグループがあった。 プラカードには「人工中絶を認めろ」。

デモ行進が五番街を下り始めた。  湿っぽさも緊張感もない。 気の合う友人達のグループが、たまたまプラカードを掲げて散歩している、そんな風情だ。 歩道を行進している。 警官達はデモの行列が途切れないように、横からの交通を遮断している。 道路の反対側に見事に女装した190センチ以上ありそうな大男が3人現れた。1人はミニスカートをはいている。 彼ら、彼女らと言うのかもしれないも、プラカードを持っていて、「セックスに責任を持とう」みたいな事が書いてある。 そして、デモの行列に向かって、3人が声を揃えて何やら呼び掛けている。 表情はにこやかである。 デモの行列から拍手と歓声が沸き起こった。 警備の警官までもが手を叩く。 謙治は心が和むのを感じた。 デモで自分達の主張を掲げる人達。 それに反対する人達。 しかし、彼らは険悪にはならない。 相手を尊重しつつ、自己を主張する。 決して押し付けない。 彼らはデモを、そして、その反対の主張を楽しんでいる。 政党にや労働組合に動員されたのではない、自分達のデモンストレーションをしている。

自由、初めて自由が何だか分かったような気がした。 日本の多くの政治家は「日本ほど自由な国は無い」と良く言う。 謙治も長い間そう信じていた。 これだけ楽しいデモが日本にあるだろうか。 謙治は、どのようなデモにも参加した事はない。 動員され、「はんたーーい」と叫ぶだけのデモ。 拳を掲げ「アメリカは日本から出て行け」と叫ぶデモ。 引きつった顔で機動隊と睨み合うデモ。 デモに反対の人達は、白い目を向けるだけで、何の意志表示もしない日本人。 拍手も、デモに対する罵倒さえも無い無視された日本のデモ。

ニューヨークの人達は人生を楽しんでいる。 何をするにも楽しく行う。 仕事も、辛い筈の引っ越し作業も、日本人から見ると怠けている様にみえるが、語らい、決して素早くはないがこなしている。 日本人は、何でも完璧を望む。 完全でないのは駄目と決めている。 ニューヨークの地下鉄に駅構内放送はないし、「次の電車は隣の駅を出ました」の表示もない。 次の駅の表示さえもほとんど無かった。 車内放送も最低限で、どちらのドアーが開くかなんて言わない。 エスカレーターで、手すりにお捉まり下さいは言ってなかった。 デパートの案内係は一ヶ所しか無かったし、エレベーターもオペレーターは居なかった。 自由の女神の階段に、あと何段の表示もなかったし、セントラル・パークに木の名前も池の名前もトンネルの名前も書いてない。 エンパイア・ステートビルの展望階へのエレベーターは集中コントロールされていて、オペレーターは乗らない。 そして、エレベーター内では何のアナウンスも無い。 警官は、だらだらしている様に見えるし、パレードで身長順に並べたり、足並みを無理に揃えたりもしてなかった。 日本人から見ると欠陥だらけだ。 だから、どうだと言うのだ。 誰が困るのだ。

オリンピック開会式の日本選手団の入場行進は、世界のどの国よりも整然としている。 いろいろ考え方があるだろうが、謙治はそれが素晴らしいことだとは思わない。 入場行進の為に参加しているのではない選手達に、なぜ、あのような事に神経を使わせるのだろう。 スタンドに手を振り、にこやかに行進する多くの国の選手達の方が見ていてずっと気持ちが良い。 高校野球は、入場式の予行演習を前日に行っているらしい。 彼らは、閲兵式の軍隊ではないのだ。 野球をしに来ている彼らに、入場式の練習は馬鹿げた行為に思える。 そして、あの年々長く複雑になって来る選手宣誓。 少しでも良い試合をする為にのみ神経を使わせて上げられないものだろうか。

都市には、物乞いが付き物だと、どこの国の人も言う。 謙治は、外国から来る人達に物乞いのいない東京を自慢したことがあった。 しかし、物乞いのいない都市は、不自然なのではないのかと思い始めた。 数百万人が住む都市に、物乞いが居ないのは人間的ではない。 機械的な都市。 その中に長い間住んでいると、それが当たり前のような気がしていた。 百点満点の都市。 百点にするのには、大変な努力が要るが、90点なら少し努力で足りる。 日本人は百点のために人生を忘れているのではないだろうか。 謙治は夢中で、がむしゃらに長い間百点を心掛けて働いて来た。 気が付いた時自分に何も残っていなかった。自分から仕事を取ったら脱け殻だけが残った。 そうだ、機械ではないのだ、人間なのだ。 ニューヨークには人間が住んでいる。

自動車の間をすり抜けながら歩く路地。 辛うじて在る歩道ですら、無作法な自転車に脅かされなければ歩けない東京。 ベビーカーの通行を許さない、マンハッタンでは一ヶ所もお目に掛からなかった歩道橋。 東京は、人が住むようには作られてない。 アメリカ人は自分に責任を持つ。 だから、赤信号でも車が来なければ渡る。 警官は、それに対して何も言わない。 日本人は、お節介過ぎるのではないか。 エスカレーターは、いつも決まってうるさい。 東京タワーのエレベーターは、スタートから到着までにピッチリの説明が付く。 公園の木に名札が付き、鉄道には親切すぎるアナウンスが。 謙治はJRの駅で何度耳をふさぎたくなったことか。

イースト・リバーを足元に見るグレタ・ガルボが住んでいたアパートの前で写真を撮ろうとすると、歩道に居たそのアパートの住人らしい老人が、カメラの前に出てポーズをとった。 明るいアメリカ人。 楽しいアメリカ人。 このミッド・タウン・イースト地区のカフェで朝食を採っていると、やたらと一人暮らしらしい男の老人が目についた。 老人の一人暮らしなんて嬉しいものではない。 しかし、老人が一人で朝食を食べられるところが在るのが嬉しかった。 決して粗末ではない食事が、気軽に安く食べられる。 謙治は自分が老後に、この地区に住むことが出来ないものかと一瞬考えた。

東京の物価は何とかならないのだろうか。 新聞などに、物価統計と称するものが出ることがある。 東京の物価を100としてロンドンがどうの、パリがどうのというやつだ。 謙治は東京が世界一物価高であること以外、数字的なことは記憶に無い。 だが、東京を100として、ニューヨークが50とはなってなかったと思う。実感としてニューヨークの物価は、物によるとしても50以下のように謙治には感じられた。 謙治は多くの日本からの旅行者がするようには買い物をしなかった。 だが、少ない買い物でも歴然としたその差は感じられる。 第一に食品が安い。食品店でも、レストランでも東京の半分以下だ。 ブランド物のジーンズを、子供達の分も含めて何本か買った。 正規の物が東京の半値だし、バーゲン品は驚くほど安い。 雑貨が、薬品が、半値より遥かに下だ。 フランスの香水は、フランスより安い。 これらを為替のためだ、円高だからだと片付ける事の出来ない何かがあるように思う。 日本製のカメラやフィルムが日本より安い。 日本の誰が儲けすぎているのだろう。

アメリカは安全が問われる国だ。 ニューヨークは特に危険だということになっている。 毎日何人かが銃の犠牲になっていると聞いているが、こちらのテレビ放送には、その様なことは1件も報じられてなかった。 東京の交通事故が報じられないのと同じで、余りにも日常化しているからなのであろうか。 短期間の滞在で、この様な事を言うのは乱暴かもしれないが、謙治の歩き回った地域であるマンハッタンのセントラル・パーク以南では、そのような危険の存在が信じられない程であった。 謙治が東京に帰った10月25日に、京浜急行線・青物横丁駅で医師が撃たれ。 27日には市川で発砲事件があった。 暴力沙汰で名高い北九州では、28日にも銃撃戦と報じられている。 ニューヨークには、危険地帯があると聞いている。 日本には安全地帯しかない。 その安全地帯での銃撃戦は、危険極まりないのではないか。

謙治はすっかりニューヨークびいきになっていた。 人間臭い街ニューヨークが好きになっている事に戸惑いは感じなかった。

ニューアーク空港に日が差して来ていた。 きょうもニューヨークはいい天気だ。搭乗ゲイトに向かうと近くにはプロペラ機しか見えない。 まさか、ワシントンへ向かう便がプロペラ? 搭乗券はDであったから、今度は通路側だと思っていたのに、プロペラ機ならまた窓際だ。
時間になった。 バスに乗せられた。 遠くに止まっているジェットへ行くのだと思ったのも束の間、小さなプロペラ機の横でバスは止まった。 バスの運転手だけがタラップを上がり、乗務員と何やらしばらく話している。 やがてバスの運転手が機上から手招きをした。 これも日本だったら無作法になる。

4人並びの座席が12列、48座席のこのプロペラ機名を謙治は知らなかった。謙治の知っているこのクラスのプロペラ機は、YS11とフレンドシップだけだが、そのどちらでも無いようだ。 動きだしたのに中々飛ばない。 動いては止まり、動いては止まりしている。 30分も経って滑走路に向く為に180度ターンした時、驚いたことに、7・8機が後ろに列を作っているのが見えた。 飛行は順調であった。揺れもほとんど無く快調に田園風景の上を飛んでいた。 あっ!いけない!スーツケースに鍵を掛けるのを忘れた。

ワシントン・ダレス空港は、のどかとしか言い様のない空港である。 ゲイトからターミナルへはシャトルに乗る。 乗り次便のカウンターはすぐに分かった。 いつの間にか回りには日本人が多くなった。 ワシントンの太陽は、ニューヨークよりも明るいのではと感じる程、木々の緑をまぶしくしていた。 今度はワシントンにも来よう。

旅行は好きだし飛行機も嫌いではない。 だが、13時間の飛行は拷問に等しい。 それにしても日本の航空会社の乗務員は、訓練されているとは言え良くあんなに笑顔を保てるものだ。 謙治は今回、USエアーとコンチネンタルエアーに乗った。 スチゥワーデス達は親切であったが、にこにこはしていなかった。 長時間、笑顔を絶やさないで居られる日本の航空会社の乗務員達に、敬意を持ってありがとうと言いたい。

成田空港第二ターミナルのゲイトからメイン・コンコースへ行くのに、空港自慢の空気浮上式のシャトルに乗る。 たった1分間なのに「間もなく到着いたします。お出口は・・・・」下りて少し行くとエスカレーターがあった。 「お子様は中央にお乗せ、手すりに・・・・」あああ! お節介な日本へ戻ってしまった。

1994年10月
ただただワゴンセールや特売場をかき混ぜているらしかった。 10時に高島屋で降ろす。謙治は事務所に戻り、こまごました仕事を片付け、11時に迎えに行く。 高島屋から時には三越へと午前中に二つのデパートへ行く事もあったが、大抵は事務所に寄って昼食と昼寝の為に家に帰るラボルド氏を伴い、麻布十番のスーパーで餃子かシュウマイを買うのが普通であった。





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