パリ国立銀行は、世界中に数多くの支店や子会社を持っている。 先進国にはもちろん、発展途上国や紛争国、政情不安定な国々、比較的中南米やアフリカに多くの店舗がある。 アジアや中東も然りである。 謙治の勤務した20数年間に、ラオス、カンボジア、それにイランから撤退し、今は(1969)ホーチミンとハノイに支店があるが、ヴェトナムからも長い間撤退していた。 駐在員事務所が開設され、本店からの通達に発表されると、少しずつではあるが、それらの各店からテレックスや手紙が入るようになって来た。1969年のテレックスは大変な作業であった。 ほとんどは待時コールで、つながるのを待つ時間が大変で、やっとつながっても変形いわゆるギャーブルに悩まされた。 それでも当時としては、メッセージを最も早く安く届ける手段として、他の何よりも有効であった。 電報としてKDDに預ける事は出来たが、とてつもない料金を請求された。 日本がまだ、それ程裕福になった実感はなかったが、手紙の用紙などで苦労はしなくなっていた。 各地から来る手紙、特にボンベイ支店からの手紙は、粗悪なトイレットペーパーを思わすようなものであり、用紙を送ってあげようかと真剣に考えたほどだ。 テレックスは専ら国際用であったが、電話はいかに国際銀行であっても、この当時はまだ海外との通話は非常にまれであった。 しかし、時には架けねばならないこともあり、そんな時は大変であった。 相手の時間を気にしなくてはならないのは、今でもさほど変わってないが、自分の時間も気にしなくてはならない。 ダイヤルで外国と電話が繋がるようになるのはずっと後の事で、KDDの交換手が花形職業の時代であった。 まず、KDDに通話を申し込む、繋がるのは1時間後か2時間後か、時には半日以上待たされることが珍しくはなかった。 そして、その間、極力国内の電話を制限しなくてはならなかったし昼食に出かける事も出来なかったのである。 KDDが呼び返す時、話中や留守だと大変な事になる。 幸いにも、多くの国々からたくさんの通信があった訳ではない。 駐在員事務所の仕事は、かなり限られたことしか出来ない。 日本の企業の信用情況を知りたがったり、東京に進出したい企業が、そのための状況を知らせてくれと言って来たりした。 信用調査などという業務は、当時の駐在員事務所の能力ではとても出来るものではなかったので、調査対象企業の主取引銀行に依頼して資料をもらったのであるが、困るのが大商社もその対象外ではなかったことである。 三菱商事の問い合わせを三菱銀行にすると「何を馬鹿なことを、商事はうちより大きいよ。」などと言われてなかなか資料をくれようとしない、資料など元々無かったのかも知れない。 大商社の信用調査で、銀行に迷惑がられるのとは対象的に、知名度の極めて低い企業で悩まされる事も度々であった。 兵庫県に、指月電機製作所というのがある。 今は、東証二部にも上場している立派な企業であるが、1970年に謙治たちは、この会社を知らなかった。 ローマ字で、"SHIZUKI" と書いてあると、鈴木の間違いではないかと早とちりする。 社名や地名のスペルミスは珍しい事ではなく、判断に苦しむとスペルミスではと思う事が再三あった。 フランスから商品見本が送られて来て「日本で売りたいのだが、適当な会社を紹介してくれ」と言うようなものもたくさんあった。 その商品が、当時の日本が盛んに輸出していたビニール製の財布であったり、プラスチックの玩具だったりして謙治たちを困らせたものだ。 駐在員事務所の本来の業務が何であるのか、謙治は完全には分からなかったが、もっとも多く時間を費やし、もっとも重要(?)だとされたのが、本支店から来日する人達の接待と観光案内であった。 フランス国内の単なる1支店から、「大切な顧客が行くからよろしく」という様なのが頻繁にあった。 長い間閉ざされていたソヴィエトが、観光客のためにシベリアルートを開放したのがこの時期であった。 パリ国立銀行香港支店に、どれだけのフランス人が居たのか知らないが、休暇でフランスへ帰るのに横浜から船でナホトカに渡り、ナホトカから飛行機でハバロウスクへ、そこからシベリア鉄道でモスクワ経由ヨーロッパという旅がはやった。 航空運賃が高く、海外旅行がまだ高嶺の花であった頃で、日本人もこれを利用してヨーロッパへ行った人は多いと思うが、これは今のような短期の旅行では出来ない。 片道に10日間近くかかる旅行なのである。 香港のフランス人連中が、次から次へとソヴィエトへの査証の申請を依頼して来る。 香港にはソヴィエト領事館が無く、東京のソヴィエト領事館が代理申請、代理受領を認めていた。 シベリア鉄道が開放されたからと言って、ゴルバチョフが大統領になる20年も前のソヴィエトである。 麻布狸穴のソヴィエト大使館の査証室へ行くのは、それ事態、冷たい鉄のカーテンの中へ入るような、寒々としたものであった。 申請した査証を受け取るのに、指定された日時に行って、すぐに受け取れる事は皆無に等しかった。 何時間も待たされるのである。 苦情を言ってもまともな返事を期待するのは間違いであった。 いつ受け取れるのかと聞けば、明確なる事実「まだ出来てない」が返って来た。 外部に連絡したくても公衆電話が無いので、受付の電話を貸してくれるよう頼んだ事があった。 「ここは駄目だ、大使館の受付へ行け」と言われ、そちらへ行くと「壊れている」と言う。 本当に壊れていた。 受取に来ている他の人達は、旅行社の人達が主のようであったが、みな静かに耐えていた。 常に威圧的な2・3人いる担当者は、かなり難しい日本語、例えば「根本的」とか「基本的」と言うような言葉を連発するのだが、あまり理解しているようでは無かったし英語は通じ難かった。 と言うような訳で、ヴァカンス・シーズンの金曜日は毎週のように横浜港大桟橋のソヴィエト船ハバロウスク号にテープを投げていたのである。 しかし、幸いなことに次の年からソヴィエトへの査証の申請要求は1件も無くなった。 パリ国立銀行駐在員事務所の在った国際ビルには、ドイツ銀行、英国のバークレーズ銀行、同じく英国のウエストミンスター銀行が並んでいた。 それぞれが少人数同士だったので、お互い良く行き来し、みんな仲良しであった。 特に副代表ジュリアン氏は、陽気にそれらの事務所を頻繁に行き来し、電話がかかると探すのに苦労したほどだ。 そのジュリアン氏がメキシコへ転勤になった。 ラボルド氏と反りが合わなかった事は謙治も感じていたが、 愉快な男であった。 2年程の東京勤務で代わりの人がまだ決まらぬまま「また来る」と言って去って行ってしまった。 ジュリアン夫人は学研派で、東京中の博物館や絵画館を訪ね回り、社寺仏閣も京都や奈良ばかりではなく、東京の小さな寺まで良く研究していた。 謙治は目黒の羅観寺へ一緒に行った事があったが、薄暗いお堂の中で、一つ一つの羅観を丁寧に見ている様は印象的であった。 ラボルド夫人はと言えば、こちらは相も変わらずデパート巡りをしていた。車の都合が付けば、必ず1日に2軒、時には3軒のデパートを、ただ歩き回っていた。 彼女は他のことには一切興味を示さなかった。 謙治は一度、半ば強制的にラボルド夫人を靖国神社へ連れて行ったことがある。 ラボルド夫人と一緒に息子のオリビエを暁星学園へ迎えにいった時、20分程時間が余ったことがあった。 彼女は「この辺にデパートは無いか」というので、半ば腹を立てた謙治が「デパートは有りませんが、いい所があります」と言って靖国神社へ行ったのである。 社殿の裏には人があまり行かない小奇麗な日本庭園がある。 紅葉の季節で特に奇麗であったが、夫人は何の興味も示さなかった。 フランスからの客などを観光に連れまわる時、明治神宮などへ行くと、必ずラボルド夫人は車に残るのであった。 そして、観光コースの選択の主導権が自分にあれば、嬉々としてデパートだけを、「東京にはたくさんあるから」と言って連れ回るのであった。
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