優雅だった外国銀行

tonton

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12 またもやホンコンから
2005年05月14日(土)

シュナール氏がジュリアン氏の後任としてやって来た。 彼も香港勤務が長い。 日本の企業ではあまり考えられない事かも知れないが、個人が尊重されるフランスでは、転勤の場合でも本人が希望しなければ実行される事がまず無い。 だから相変わらず、例えそれが多額の外地手当が支給されるとあっても、パリから16時間も飛ばなくてはならない1970年の東京、彼らにとっては、未知の国日本に、進んで飛び込む人は少ないのだそうだ。 香港のパリ国立銀行には、多くのフランス人が勤務している。 香港は、英国の統治下にある安心して足を踏みいれる事の出来る地なのである。

シュナール氏は40才を過ぎていたが独身で、そのことが独身揃いの秘書達に大きな期待を持って迎えられたが、彼は女性には興味を持たない種類の人間である事が何処からとはなく伝わって来た。 仕事をバリバリこなす人ではないが温厚な性格で、部下に対する思いやりがあり、謙治は仕事がしやすくなった。

多くのフランス人の例に漏れず、シュナール氏もHの音が出ないばかりか、彼は英語をフランス語発音するのである。 例えば、"ANSWER"をアンズウェールといった具合だ。

ラボルド氏を最初に羽田に迎えてから早くも4年の歳月が流れていた。 謙治はマンネリ化している自分の仕事に嫌気が差し始めていた。 車の運転は大好きである。 入れ代わり立ち代わり訪れる旅行者や、出張や休暇で訪れる人達の世話をするのは嫌では無かった。 しかし、相も変わらずデパート歩きしかしないラボルド夫人には、ほとほと呆れていた。 自分でバスなり地下鉄を使って行ってくれれば良いのにと謙治は思ったが、移動には銀行の車と決めているらしかった。

ラボルド氏はと言えば、彼もこの4年の内に随分変わってしまった。 あの、謙治を送って行くと言っていた、親切で人の良いラボルド氏は、どこにも見当たらなくなっていた。 人はトップに成り立ての時は謙虚でも、次第にそれに成り切り、次いで横暴にさえ成って来るものなのだろうか。 秘書達とラボルド氏との間にも、軋轢が無いではなかった。 若い秘書たちは耐えてしまうのだが、神戸のフランス領事の紹介で来ていた30才代半ばの秘書は、我慢して耐える性格ではなかった。 時々衝突した彼女は、ボーナスを削られ、益々いきり立っていた。




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