優雅だった外国銀行

tonton

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13 東京支店開設
2005年05月16日(月)

大蔵省から、もし支店を開きたいなら申請すれば許可されますよ。 と言って来たのが1972年秋であった。 それまでパリ国立銀行には、明確なる支店開設の意図はなかったが、大蔵省からの内示によってにわかに忙しくなった。 店舗用スペースを確保しなくてはならない。 スタッフはどうするのか。 円転換の規模は?(当時は、外貨の規制が厳しく、銀行を営業するには多額の日本円資金が必要のため、特別に円転換を認めてもらう)等々。

日本の銀行業務に詳しい英語を一応理解するスタッフを揃えると言う事は、非常に困難な時代であった。 ヘッド・ハンター等というのは、ほとんど聞かなかった時代であり、引き抜きが活発に行われる行為ではなかった。 それに銀行員自身も、今よりはるかに愛社精神が厚かったので、例え1・2年の短期間であっても、他行に移ることは昇進レースから逸脱すると考える人や、左遷人事ととられることが多かった。 ラボルド氏は、邦銀各行に中堅行員の出向の依頼をして回ったが、どの銀行も一斉に国際業務に目を向け始めた時期であり、自行の陣容を揃えるのに精一杯の邦銀各行は、他行に人員を貸し出す余裕など無くて当然なのであった。 謙治は三菱銀行の国際部へ何度か訪ねて行ったことがあったが、他の部と一緒の大部屋に10人ほどが居て、それぞれが各地域を担当していた程度であった。 悪条件はまだあった。 支店開設が許可された外国銀行は、謙治が馴染みにしていた銀行だけでも隣組のドイツ銀行、ウエストミンスター銀行、バークレイズ銀行の3行、イタリア商業銀行、米国のマニュファクチャラーズ・ハノーヴァー・トラスト銀行、それにパリ国立銀行と並ぶフランス三大国立銀行であるソシエテ・ジェネラル銀行とクレディ・リヨネ銀行。 それらの通常は仲の良い者達が、互いに凌ぎを削り、支店を開く予定など全く無いような顔をして、場所と人員の奪い合いをしていたのである。

どの銀行が何処へ、いつ開店するかの探り合いが始まった。 どれもが他行より1日でも早くより良い場所で、可能な限り良い陣容で開店しようとしていた。

国際ビル9階に在って、親友が多く居るアジア民間投資会社が移転することになった。 ラボルド氏は支店開設場所として1階を探していたが、一足先に朝日東海ビル24階に開店していたマニュファクチャラーズ・ハノーバー・トラスト銀行が「不満である」という情報が入っていた。 しかし、近々確保出来そうな1階のスペースは、丸の内地区にはとても有りそうになかった。 「臨時店舗で行こう、3年以内に移転するように金を掛けないで店を作ろう」という事になって、広さの点で我慢をせねばならなかったが、アジア民間投資会社の後を引き継いだ。

本店から建築家ロディエ氏がやって来た。 30才代半ばのパリっ子で、都会(パリ)的雰囲気を振りまく彼は、たちまち秘書達のお気に入りになった。 彼はパリ国立銀行勤務の建築家で、年の半分以上を海外出張していると言っていたが、この時もシンガポール支店の建築をほぼ終えて来たのであった。 元々建築家であるロディエ氏は、室内装飾が本来の仕事では無いらしかったが、それでも精力的に働き、ラボルド氏と意見が衝突することが少なくなかった。 しかし、本職が来てしまうと「金を掛けずに」という目標は、いつの間にか吹き飛んでしまった。

家具什器、電話装置、何処でどう嗅ぎつけるのか業者が次から次へとやって来る。 短資会社(外貨売買の仲介業者)が、この当時は4社しか無かったのであるが、何度も何度も挨拶に来る。 それらのほとんどは英語力が十分でなかったり、全く通じなかったりで、その都度謙治が応対をさせられた。 銀行業務に疎い謙治は、短資会社が何なのか、その役割が暫くの間分からなかった。

当然の事ながら、ラボルド氏の息子オリビエを下校時に迎えに行くこととラボルド夫人のデパートのお付き合いは、謙治には困難になって来た。

新聞のドライバー募集を見て応募してきたのは多くはなかったが、募集広告がジャパンタイムスであったにも拘らず、応募者の英語の能力は惨めとしか言い様がなかった。 しかし、謙治の経験から、そのような事は充分理解できた。謙治の知っている外人付きの運転手で、まともな英語を話すのは、ほんの一握りであった。

ハイヤーの運転手だという人を雇った。 謙治は大助かりであった。 何よりもラボルド夫人をデパートへ運ばなくて良くなった事が嬉しかった。 謙治は例えどんなに忙しくても、それが意義のある事なら喜んで献身出来た。 しかし、怠け者夫人の暇潰しのお付き合いには辟易していた。

建築の総ての手配が付くと、ロディエ氏は竣工を待たずに帰ってしまった。一度だけ箱根から伊豆へドライブしたが、彼の感受性の高さに驚かされた。 秋の終わりであった、まだ伊豆には紅葉が残っており、折り良く天候にも恵まれたので、富士山も海も美しかった。 ロディエ氏はワンダフルを連発し、訳の分からぬ事を叫び、時々口を押さえて驚きの表情を押し留めようとしていた。 このコースでラボルド氏の勧める昼食は、スカンディナヴィアンというヨットのレストランであったが、ロディエ氏は日本の食事を希望し、三津浜海岸の旅館での豪華な寄せ鍋と刺し身に大いに満足していた。

開店の日を、4月2日とした。1973年の4月1日は日曜日であったので。

建築は順調に進み、家具什器も期日までに運べる手配が出来た。 金庫は、金庫室が出来る前に入れなくてはならないので、早々と運ばれた。 電話の工事も順調に進んだ。 受話器は、ほとんどが黒と決まっていた時代であったが、アイボリーにした。




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