優雅だった外国銀行

tonton

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15 再雇用
2005年05月18日(水)

ワインの訪問試飲販売をしていた謙治に、シュナール氏から呼び出しがあったのは、11月に入ってからで、パリ国立銀行を退社して7ヶ月が過ぎていた。風の便りでラボルド氏とシャピュー氏の不仲は知っていたが、ラボルド氏は帰国したので戻ってこいと言う。 ラボルド氏とシャピュー氏は、最初の数週間は対立していたが、それが過ぎると話し合う事もなくなり、ついには、弱い方が東京支店を去ったのである。 両雄が反発しながら共存した数ヶ月は、店舗から少し離れた、そのままになっていた元駐在員事務所の部屋にラボルド氏は出勤し、他の人に会う事もなく1日を過ごし、そこから帰宅していたそうだ。

謙治はラボルド氏に、さようならを言うこともなかったことに、申し訳無さのようなものを感じた。 最後の頃の関係は、必ずしも良いものであったとは言えなかったが、5年近い歳月を、最も近い存在として過ごして来たのでは無かったのだろうか。 ラボルド氏は離日の間際に、ふと謙治の事を考えはしなかったろうか。 支店開店の日の夕方、記念写真撮影のために、あれだけ謙治を探したというラボルド氏。 謙治は、とんでもない親不孝をした息子のような気がした。 空港へは、誰も見送りに行かなかったという事を後から聞いた。

支店になって半年余の間に、郵便も、テレックスも桁外れに増え、人員も30人程に膨れ上がっていた。 ドライバーもいた。 アジア民間投資会社から事務所スペースを引き継いだ際にドライバーも一緒に譲り受けたのだ。 謙治もかねてから知っている、自己吹聴型で仲間から爪弾きされている男、アジア民間投資会社は厄介払いが出来て喜んでいた。 英語も出来ると思っているのは本人だけであり、秘書達を毎日のように困らせたいた。





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