優雅だった外国銀行

tonton

My追加

16 銀行も優雅
2005年05月20日(金)

東京支店のトップになったシャピュー氏には子供がいなかった。 ダイニングルームとリビングルームの広い、管理の行き届いたアパートを赤坂に見つけ優雅な暮らしをしていた。 ゴルフをするフランス人は非常に希なのだそうだが、毎週水曜日は夫妻と友人たちとでゴルフに行き。 1度は友人たちと、もう1度は顧客を招待しての週2回のディナーパーティー。 他に夫人たちの「ブリッジの午後」というのを持ち回りでやっていた。 快活なアメリカ人であるシャピュー夫人には、友人がどんどん増えて行くようであった。 勿論、ほとんどがアメリカ人であり、少数のアメリカンクラブに出入りする日本人もいた。

アフリカのガボンに長く住んでいたシャピュー氏は、あくせく働くような事はなく、9時過ぎに出社し、お昼に帰宅する事はなかったが、取引先とのビジネスランチも好きではないらしく、5人に増えていたフランス人の部下達を引き連れては、帝国ホテルまで10分弱を歩き、食後は銀座から日本橋を回って、小1時間の散歩を楽しむ事を常としていた。 部下のフランス人達が、この昼食の行事をサボると大変な事になると言いながらも、不参加の適当な口実を探す事に戦々恐々している様を端から見ているのは結構楽しいものであった。 シャピュー氏は、そんな部下達の様子を、内心おかしさをこらえて見ているようなところがあり、「若い人は、歩くのが嫌いだ」と言って笑っていた。 そして、5時にはそそくさと帰ってしまっていた。 ゴルフ前日の火曜日の午後になると、落ち着きが無くなり、全く日本語が分からないのにも拘らず177をダイヤルし天気予報を聴き、「トキドキって何だ?」等と言っては秘書たちを笑わせていたものだ。

従業員全員と、その配偶者が参加するクリスマスディナーは、シャピュー氏の演出によった。 常に一流のレストランを心掛け、必ずしも評判が良い訳ではなかったが「本当のフランス料理を」と自分で料理を選んだ。 そればかりか、当時としては高級品であったフランス製のマロングラッセを、手土産用にと自分で出かけて選んだりした。

毎年の社員旅行も、シャピュー氏が制度化したのであった。 これも原則的には配偶者同伴で費用は全額銀行が負担し、行く先、ホテル、コースの選定にまで、シャピュー氏が関った。 その為に、外人好みのコースが選ばれるのは避けられず、多くの日本人スタッフは修学旅行と揶揄したが、シャピュー氏在任の6年間に、京都へ3回、奈良1回、広島、厳島神社から錦帯橋というハードスケジュールが1回、そして仙台へ飛んで松島へも行った。 銀行を休みには出来ないので、何れも土曜の午後からのスケジュールであった為、振り返ってみると、よくあんなに忙しい旅が出来たものだと思う。 いずれの場合も、謙治は幹事役を勤めていた。 やらされたのではなく、自然にそうなってしまったのである。 シャピュー氏は添乗員を嫌った為、集合時間を知らせたり、員数を数えたりを謙治以外の人は我冠せずであった。 人種に民族性が有るとすれば、フランス人は規則で縛られるのが大嫌いである。 コントロールされるのを好まない。 だから、集合時間が守られる事はまずない。 目的地に着き、必要事項を告げ、目的の寺社、博物館等に引率する。 人数分の入場券を買って入り口で待つのであるが来ない。 途中で何かに興味を持てば、そこで止まってしまう。 そんな具合だから謙治はあまり観光は出来なかった。

ゴルフ・テニス大会も年に2度開かれるようになった。 これに参加出来るのは勿論、ゴルフやテニスをやる人だけであるが、賞品を含めて費用は全部銀行が負担した。

土曜日の勤務も交代で隔週休むようになった。 謙治は土曜休みになかなか慣れる事が出来ず、土曜日は遊びに行くのにも背広を着ていたほどだ。

シャピュー氏は、従業員が喜びそうなことで自分も好きな事は進んで取り入れた。  しかし、事務の近代化、機械化という事になると全く関心がなかった。 細長い事務所の片隅にある、分速3枚という小型のコピー機に、行列が出来る事が珍しくなくなっていた。 未だ、総務というセクションは無かったが、シュナール氏の後任で銀行内の様々な事に目を配る役の副支店長パラス氏の了解を得て、謙治はコピー機の入れ替えを行った。 大して負担増になる事でもなかった。 しかし、シャピュー氏はそれをどうしても許さず、業者にペナルティーを払って引き揚げてもらった事があった。 56才を過ぎていたシャピュー氏には、例え1枚目に30秒かかろうと、コピーが出来る事それ事態が素晴らしい事なのであった。 その事があってから、機器の購入はパラス氏の禁句に成ってしまい困る事が多かった。 タイプライターも計算機も足りなくなっていたが、それらを増やすのは大変な事であった。

世間一般がそうであったし、諸物価も上がっていたが、給料がどんどん上がった。 年30パーセント以上上がった事もあった。 全従業員がパリ国立銀行で働く事に幸せを感じ、外資企業と日本企業の違いを感じ、優越感さえ持つ者もいた。

どこかの既製のものに、社名を付け替えただけの就業規則があった。 既に土曜日の勤務が隔週に成っていたが書換えはしなかった。 誰もその存在を気にしている者はいなかったのだ。 ただ、定年年齢や、退職金の規定に付いて、多少の手直しが必要である事に、何人かは気が付いていた。 定年年齢55才、定年退職であっても、退職金の支給額は、勤続年数×基本給プラスアルファーとなっていたからだ。 しかし、皆若く、定年はまだまだ先の事であった。 何よりも全員がトップを信頼していた。 プラスアルファーが有るではないかと。

この時代の外国銀行は、トップがあくせく働かなくても業務は確実に増え、利益も上がる様になっていた。 日本での顧客の接待は、ゴルフが喜ばれるのを知ったシャピュー氏は、早速、ゴルフ会員権探しを始めた。 毎週水曜日にシャピュー夫人とその仲間達とでゴルフを楽しんでいたが、それは厚木か座間の米軍基地内のゴルフ場で、接待ゴルフには向かなかったからだ。 遠くないゴルフ場、それが唯一のゴルフ場選びの条件であり、府中カントリークラブの会員になった。

ゴルフ会員権相場が、目茶苦茶に上がりだす遥か前のことで、800万円程であったが、フランス人の感覚からすれば、途方もない額であったが為に、本店の許可を取るのが大変であったと聞いている。 副支店長のパラス氏ですら「ふん、たかがゴルフの為に、800万円」と陰ではぼやいていた。

毎週土曜日が接待ゴルフ日となった。 同伴者として選ばれた外為部長の谷口氏は、津田沼から新京成電鉄で奥へ入った所に住んでいて、府中カントリークラブへ行くには、東京を横切らなくてはならい。 困る事に早起きが嫌いな人なのである。 そして、問題は未だあった、スタートの予約が取れないのである。 4週間前の土曜日の7時20分から電話受付をするのであるが、全く取れない。 現地で並んでいる人を先に受け付けるのだと言う。 次の週から謙治はゴルフ予約係りになってしまった。 毎週土曜日は、4週間後の土曜日の為に朝早くゴルフ場へ飛んで行ったのである。 6時半に着いたのでは季節によっては十分でない事もあった。 冬場はゴルフの接待は無かったが、3月にプレイするためには、2月に並ばなくてはならない。 未だ真っ暗なクラブハウスの前に並ぶのであったが、謙治は懐炉という物を初めて使うようになった。




BACK   NEXT
目次ページ