優雅だった外国銀行

tonton

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18 一流銀行は一等地に
2005年05月24日(火)



支店開店以来3年が過ぎていた。 当初の予定で臨時店舗の積もりでいた9階の店舗は、40人を超える陣容を抱え手狭になってきていた。 店舗用にとビル一階の賃貸情報が時々あったが、シャピュー氏は、あくまでも一等地を欲しがった。 外国銀行というのは、その営業方針にも依るだろうが、必ずしも一階に店舗が無くとも営業に差し障りは無いのである。 勿論、一般の人達が外貨の交換のために訪れはしたが、それは収益の面から見れば重要性は薄く、また邦銀のように預金を欲しい訳でもなかった。 だから、9階であろうが、20階であろうが良かったのである。 しかし、シャピュー氏の考えでは、一流の銀行は、それに相応しい地に相当の品格を持った店を構えなくてはならないのであった。 例えそれが非常に高くつく事であっても。

丸の内地区の美観論争があって久しいが、論争の元祖である東京海上ビルの前、東京駅丸の内中央口を出てまっすぐ、皇居のお濠に面した所の、日本郵船ビルの立て替え工事が進んでいる事は知っていた。 そこは、シャピュー氏の言う一等地なのである。 施工主が日本郵船株式会社である事は分かっていたが、賃貸借の交渉相手が明確では無かった。 建築設計を担当していた三菱地所より、1階の賃貸が可能のような感触を得たのが、竣工を1年後に控えた1977年3月であった。

にわかに忙しくなった。 必要なスペースの確保の交渉、大蔵省への移転の申請、勿論、その前に本店のOKを貰う必要があったが、それはシャピュー氏の仕事である。

根気強い交渉の結果、一等地の一番良い部分、お濠と行幸通りに面した1階の角を獲得した。 しかし、2階に関しては、どうしても希望する面積も位置も取れなかった。 お濠側を欲しかったが、足利銀行が既に確保していた。 その為に後々まで、内部配置に大変な苦労をする事になったのである。

内装工事は、三菱地所の子会社メック・インターナショナルが請け負う事になったが、本店の建築家ローディエ氏が又やって来た。 前回はスリムで女性が振り向くような好男子であったが、5年の歳月は彼をすっかり変えていた。長いホテル暮らしと、何も分からぬ各支店の傲慢なマネージャー達とのマンネリ化したやり取り。 でっぷりと太ったローディエ氏からは、もう覇気を感ずる事は出来なかった。 しかし、謙治とは愉快に楽しく物事を運ぶ事が出来た。
ローディエ氏から得た前総支配人ラボルド氏の近況は嬉しい物ではなかった。東京から戻って半年位は精神的欠陥を疑われ療養生活を送っていたと言う。 その後、本店の屋上に作られた誰もいない小部屋で、秘書を1人あてがわれて、ひっそりしているらしい。 ローディエ氏は「時々会うよ」と言ってから「エレベーターの中で」と付け加えて大笑いした。

何処でもそうかも知れないが、マネージャー達というのは、仕事全体の流れを考える事があっても自分は別格なのである。 まず、自分達が一番良い場所を取る。 仕事の流れはその後になる。 1階の皇居に面した部分をマネージャー達に占領されてしまった。 外から覗かれないために、一日中カーテンを引いて置くのであるから、なんのためのお濠側か分からないが。

引っ越しは3月と決まった。 謙治にとって初めての経験であるが、驚いた事に、引っ越しとは業者だけで出来ると思っている人が多い。 銀行は営業日に引っ越す事はほとんど不可能である。 日曜日1日で済ませるのであるが、誰もが当日出て来るのを嫌がった。 引っ越し前のパッキングですら、業者任せにしようとする。 謙治は、日本企業で働く人と、外資企業で働く日本人の違いを普段から感じていたが、この時ほど強く感じた事はなかった。

説得に説得を重ね、パッキングとラベル貼りは、各セクションで責任をもってやるようにしたが、結局、引っ越し当日の日曜日は、謙治一人しか立ち会わなかった。 たった500メートルの移動であったが、一人きりの立ち会いというのは大変な事である。 電話も移動中で使えない状態になっている。 移転先の図面には明確に「赤色ラベルの1番の机は、ここ」、「黄色ラベルの5番は、ここ」と書いてある。 しかし、物事はそんなに簡単には運ばない。 謙治は500メートルをあっちに、こっちにと何度も走らなければならなかった。

翌日、謙治はシャピュー氏に呼ばれ「ご苦労」と言われ、特別手当をくれると言う事であった。 かなりの金額である。 しかし、それは実行されず、謙治も忙しくしている間に数ヶ月が過ぎ言い出せずに終わってしまった。

郵船ビルは東京駅に近く、雨でも地下通路を抜けて、濡れずに行ける点を大多数は喜んだのだが、昼食や、ちょっとした買い物となると、1階が店舗、地下1、2階がレストランであった国際ビルは良かった。 郵船ビルの1階はパリ国立銀行を含めて銀行が四行、詳しく言えば、都市銀行、信託銀行、地方銀行、それと外国銀行であるパリ国立銀行があるだけで地下は駐車場である。 隣の丸の内ビルは、古色蒼然とした商店が軒を連ね、越して来た1978年には、電話局番が2桁のままの看板が幾つもあった。 後に修繕はしたが大理石の階段も歩きにくい程にすり減っていて、ここには歴史と安らぎの様な物があった。

パリ国立銀行東京支店内の謙治のセクション、秘書課は2階になった。 そして、マネージャー達は1階である。 謙治は日に何十度となく内部に設けられた専用階段を走って登り降りする事になったのであるが、いつも階段を声に出して数える癖があったので「津村さんの階段の上がり下り」と言って皆が笑った。 「何段ありました?」とからかう女子行員も居た。

未だ、人数か40人前後で全員が家族のように、誰かの幸福を喜び、不幸には共に悲しみ励ましあった。 総てが順調で職場は明るかった。





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