希望の日記

2005年09月25日(日) 腰痛

 今日腰痛で病院に行ったらいきなり十ヵ所くらい注射を打たれた。あの医者は少しおかしい。金儲け主義かサディストかどちらかだ。中学時代のキチガイ教師と同じ目をしていた。キチガイは治らない。人を信じてはいけない。軽々しく。今日のn氏もどこまで信じていいのかわからない。アサーティブに生きよう。嫌なことは嫌といおう。今日ガイジンと話したがやっぱりうつが治りきっていないから辛いものがあった。でもガイジンは感覚が鋭く何でも気づく。いろんなことをよく知っている。独特のものがある。私の中にも同じ物が流れている。私は通常の日本人より西洋化されている。だいぶ毒を飲んでしまったが。聞き取りはだいぶ上達した。しゃべるほうをもっと頑張ろう。これは訓練が必要だ。聞き取りは座って聞いているだけでいいがしゃべるほうは訓練が必要だ。
今朝は注射の痛みは和らぎ、腰痛もこころなしか楽で落ち着いてきた。昨日のカナダ人はよくしゃべった。聞き取りがよくできたのはよかった。でも途中で腰痛と疲れのため帰りたくなった。アサーティブには正直に腰痛だから帰るといったほうがよかった。今後の課題だ。不機嫌になってしゃべれなくなって人を不快にさせて互いによくない。互いの利益を損なっている。相手の利益に十分配慮して自己主張をするという当たり前のことだ。練習だ。私は自分が愛されることを恐れている。自分を愛することを恐れている。自分の利益を増進することを恐れている。気が弱くて妬まれるのを恐れているのか。でもそんなことは言っていられない。アサーションのほかは、創作活動が良いだろう。あの場所であれば自分が愛されても大丈夫だと思う。愛されると恐くなって嫌われるようなことをしてしまう自分。でも実際妬んで私が人気者になっても邪魔をする奴がいる。あるいは貪ろうとする奴。悪用しようとする奴。それを撥ね付ける勇気がないので愛されることを諦めてしまう。
 昨日東北出身のおばさんがいたが関西人よりはまともなことを言うのでちょっと話があった。気持ちの問題かな。恐さが取れたのか。自信を持てば何を言われても動じない。ダニといわれてもお目は何なんだと言うことができる。自分は絶対そうではないと心から思えるので傷つかない。不当な誹謗中傷やいじめにも動じない。創作活動を得て得た自信がそうさせる。
 アッシュの飲み会は取るだけとってフォローがない。ぼったくりだ。スタッフの態度も最悪。雰囲気も殺気立っていて恐かった。私のような弱者は狙い撃ちされる。でも私も女が嫌いで嫌いで仕方がなかった。女が平気になるまで近づかない方がよい。そんな日は来ないような気がするが。
 全てを諦め、怠惰な生活を送っていたのが、欲望を肯定し、勤勉に働くことにしたのか。でもその激しい競争に耐えられず愚痴を言っている。でも戦わないといけないと思った。戦うというより自分の利益を守らなければならない。それができない人間はいじめにも遭うし、仲間外れにもされるし、最終的には追い出される。それにしてもアッシュは最悪だった。gwcは弱者に優しいので居心地がいい。ただリーダーが頼りない。そこがいいのかもね。
 他人の利益に十分配慮した上で、自分の利益を守る。当たり前のことだ。アサーティブというのは安心で快適なものだ。私の利益を損なうものに対してはきちんと主張する。ノーといえる。こうしたいと率直に言える。これは当たり前のことだ。それができないから苛められる。人気者になってもやっぱり苛められる。妬まれて苛められる。女のいない国に行きたい。女とは絶対にうまくいかない。絶対に。だって嫌いだもん。女が。自分が女だから。それで女ではないので仲良くできない。女のいない国に行きたい。同じ空気を吸うのも嫌だ。
 女とうまくいかない。嫌いだという気持ちは変えられない。信じられない。恐い。側に来ないで欲しい。見ないで欲しい。私について話さないで欲しい。意識しないで欲しい。忘れて欲しい。相手にしてくれと求めないで欲しい。この気持ちをアサーティブに伝えることが大事だ。自分の利益はこの嫌な気持ちを相手に率直に伝えてわたしの嫌がることはしないで欲しい。最初銀行に入ったときもう嫌だった。中学のとき変なヤンキーにからまれて嫌な思いをした。高校のとき女ばかりのクラスで嫌な思いをした。少しトラブルになった。母親や姉と喧嘩して暴力をふるった。大嫌いだった。
 嫌いでもかわいそうと思う気持ちが大事じゃないだろうか。男女の関係にはならないと思う。この嫌な気持ちをアサーティブに伝えるしかない。昨日看護婦やガイジンと話していてもやっぱり好きにはなれないと気づいた。女の方も当惑し、徒労感を覚える。憐れみの気持ちが大事だ。好きにはなれないが好きという感情の代替にはなるだろう。愛されるかどうかというのは女にとって大事なことらしい。男女関係は上下関係とは違う。私は対等で率直な男女関係など経験したことがないのでわからない。愛は無理でも憐れみは可能だろうか。憐れみは保険である。自分を守るための安全弁である。女は愛も憐れみも受けられないと知ると怒り出す。アサーティブにはどうだろう。憐れみは可能なような気がする。憐れみはしかし何かを要求される。憐れむなら何か頂戴と。カズミにお金を渡していたのは憐れみからだったかもしれない。とても残酷な行為だ。今うつだから女が愛せないのか。それにしては長い。中学時代からずっとうつだったと言えなくもない。引きこもって生存競争を諦めた。今それを振りかえってそれではいけないと思ってeg以来色々やってみた。眠っていた何かが動き出した。手遅れの部分もあるだろう。でも間に合うこともある。創作には打ち込んでみたい。今ようやく青春が私にも巡ってきた。誰にも一度は青春がある。今ようやく巡ってきた。アサーティブというのはある意味辛い。人を信じきれないからだ。でも現実がそうなのだから甘えていてはいけない。どれだけ自分の利益を損なえば気が済むのか。はっきりと物を言おう。当たり前のことだ。愛とか信頼とかを求めたいのならば創作に打ちこめ。ポケベルではそれがうまくいった。愛とか信頼で世の中成り立っていると思いこむ情けない男の物語。創作の世界では何でもありだ。モラルも常識も関係なくて、真実が描かれているかどうかだ。
 腰がまた痛くなってきた。辛い。注射の分だけ余計に痛い。痛みが引かない。もう嫌だ。そこまでしなくてよい。利益を追求するのはほどほどにした方がよい。利益と引き換えに何かが必要だ。我慢してはいけない。でも我慢しないで言うと余計ひどいことをされたりする。女と仲良くしたいから出会い系とか言っても結局嫌な思いをする。競争があるからだ。昨日の英会話では競争はなく、皆が楽しい思いをすることができる。私は優しさが必要だ。アサーティブに生きることは努力と責任が必要だ。
 女が嫌いという気持ちを押し隠して出会い系パーティーなんかでてもだめだ。女も収入も地位も若さもない私に見向きもしない。全く楽しくなかった。それどころか差別され、仲間外れにされて大変傷ついた。アサーティブに振舞おうとすると余計に攻撃性を誘発する場合があるので覚悟が必要だ。アサーティブな男女関係なんかあるのか。アサーティブは非常に限られた場面でのみ有効だと思う。全部アサーションで解決できないし、万能ではないし、ぎすぎすとげとげしすぎるだろう。男女関係では合わないかもしれない。文学の世界でも無用だ。私が職場でおかれている過酷な状況でおいて初めて有効になると思う。穏やかに話しが進む状況ではないのだ。あのキチガイ野郎どもを相手にしているんだから。
 うつがややひどくなってきた。このところ薬を飲んでいない。抗うつ剤をまた飲もうかと思う。和やかに穏やかに世の中が進んでいけば良いと思う。でもそうではない。欲が絡むと苦しいこと、辛いことが出てくる。お見合いパーティーも楽しい場所ではない。無条件で受け入れられる場所ではない。あんな目に遭ったのも偶然ではなくまた行けば同じことだろう。甘く見過ぎなんだ、世の中を。アサーティブに考えよう。アサーティブに行動する前にアサーティブに考えられなくなっている。自分が何がしたいか、何が嫌かさえわからなくなっている。自分の利益を犠牲にして自分を傷つけ害することばかりやってきた結果だ。やりたいことをやってから安らかに死んでいこう。江戸時代の農民ではないのだから。女も嫌いだが男も嫌いだ。利害関係がわからなくなった。いつも受身でいるだけで自分の利益を考えないからそうなる。
 私は真面目ではないのだろう。自分の利益を追求しないからそう見える。キチガイに迫害されてきたのは同じ理由だ。不真面目だから。やるべきことをやらないから。中学教師とhやkは結局同じだ。不真面目=許せないとなって個人攻撃になるのだ。それ以外でも同じだ。不真面目だ。バカにしている。考えが甘い。体育会系の人間からしたら許しがたいのだ。私から見たらキチガイにしか見えないのだが。文学でも皆真面目だ。私はその中でも真面目に見えないから浮いてしまう。お見合いパーティーで浮くのも同じ理由か。真面目に女を捜そうとか思っていない。雰囲気だけで良いと思っている。それが不真面目に見えるのだろう。不真面目でも良いじゃないか。芸術家なんか皆不真面目だ。でもどこかで真面目で倫理的でなかったら絶対書けない。私はまだ書くことに真摯ではない。書くことで救われたいなんて不純なのだ。ある意味不真面目なのだ。書くことを他の目的に利用しているからだ。良いものを書こうという純粋で真面目な気持ちからスタートしなければいけない。権力欲、射幸心ではだめなのだ。
 女を見るだけで腹が立つ。やばいかもしれない。大阪の女なんか全員ヤクザだ。人間じゃない。犯罪者でキチガイだ。
 昨日の英会話は大変なストレスになったかもしれない。今日一日誰にも会いたくなくて寝ていたのもそのせいか。女を殺したい。誰でも良いから殺したい。本当にそう思う。相当やばいかもしれない。いつもその気持ちをアサーティブに出していたらこうはならなかった。ババア、何のために生きているんだろう。憐れみが必要なのだろうか。仏陀は女を生涯忌み嫌った。母親さえ遠ざけた。私の場合は悟りのためじゃなく本当に単に嫌いなだけだ。これは寂しいことだろうか。間違ったことだろうか。必ずしもそうではない。kさんは男嫌いだそうだ。同じように女嫌いだっている。問題はそれを抑圧するために苦しむことだ。嫌いなら嫌いで良いのだ。人をだにとか言う奴らが何で好きになれるんだ。私をこんな境遇に追いこんだキチガイどもを何で許せるんだ。私がヒットラーみたいに政権を取ったら、女を強制収容所に送りこむ。ただ憐れみの気持ちだけが私を食いとめている。アサーティブに生きよう。嫌なものは嫌といおう。やめてほしいことはやめてくれと言おう。率直に誠実に言おう。嫌味抜きに本心をそのまま言おう。対等率直誠実なかなか良いことを言っている。
 昨日のガイジンは一所懸命に好かれようとしているのにやはり好きになれないので徒労感を覚えただろう。意地悪な冷たい人間と思っただろうか。でもアサーティブに言うとやっぱり好きにはなれないと言う気持ちは尊重しなければならない。それができないからややこしくなる。嫌いなら嫌いで良い。絶対誰も咎められない。誰も忙しいのだ。むしろその気があるように見せることが苦しめるのだ。
 私は不幸だ。男も女も愛せない。きれいな女だったら大丈夫だったのに昨日は可愛い若い看護婦もブロンドの白人女性も全然だめだった。受け付けなくなっている。アサーティブに言うと無理をするまいと思う。つまり無理して好きになろうとしなくて良いと思っている。女が嫌いでも人間としての値打ちが変わるわけではない。アサーティブに生きるとは辛い面もある。嫌いなものを嫌いと言い、嫌なことを嫌ということは当然のことなのに侘びしいのはどうしてだろう。気の迷いか。私は女を受け入れることはできない。うつによる一時的なものであろうとなかろうと受け入れられない。人をだにとか蛆虫とか言う奴ら、人をこんな境遇に落として平気なキチガイどもを受け入れることはできない。
 うつだから無理はするまい。でも少しずつでもここから脱していこう。中学時代からうつ状態にあったと考えている。一度も正常だったことはない。躁状態になったこともある。考え方に多くの歪みがある。歪んだ思考に陥りやすい。アサーティブと論理療法でいこう。エリスにすがろう。女が嫌いと気づいただけでも偉い。それを少しずつアサーティブに出していけたら今までのような不利益を受けることはないと信じる。派遣でもパートでも正社員でもババアでも娘でも看護婦でも外人でもウェイトレスでもスッチでも全ての女が嫌いで受け入れられない。これをアサーティブに率直に誠実に主張していこう。
 受け入れられないことをアサーティブに認めよう。これは本心だ。これに気づかずに今までいたからこそこんな目にあったんじゃないのか。自分が受け入れられないことをアサーティブにしかっり認めることこそが大事な第一歩だ。
 アサーティブは好き嫌いとは関係ない。事実を率直に認めることだ。好き嫌いを言っているんではないから批判されるいわれはない。自分の利益は女と距離を保つことと危害を加えられないこと、トラブルを起こさないことだ。相手がヤンキーであろうと感情や好き嫌いではなくアサーティブに行動するなら危険は避けられる。ほんとの気違いはだめだけど。
 最近は考えの筋がよくなってきたのでひどいうつにはならない。なるけどとことん落ちないでまた浮かんでくる。青春が始まったのだ。40代半ばまでサラリーマンをやってそれから文章修行をして作家になる。それでいいじゃないか。真面目になろう。作家修行も生半可ではだめだ。命をかけなければ。もっとも若い頃散々命は賭けてきたけれども。
 最近は何を読んでもよく理解できる。不思議だ。ガイジンの話もクリアーに理解できる。創作活動をやっているからかな。素直で真面目になる。優しくなる。考えた。女は嫌いだ。嫌いだから受け入れられない。でも私は男なので利得を得ている。だから憐れみの感情は持ってもよい。でもだにとか言うんだったら無理でしょう。それがアサーティブの限界だ。
 昨日ガイジンの話でバンフーと言う地名を聞いて横山さんの住んでいた町だと思い出した。今度の小説で書こうとして思い出せずに困っていたのでよかった。何と言う偶然。
 全ての人間を好きにならなければいけないだろうか。誰からも好かれなければならないだろうか。それが歪んでいる。無理がある。嫌いな人間がいて当然だ。まして人を攻撃する人間なんか好きになってはいけないだろう。アサーティブに言って良いのだ。自分を苛める人間がいてその原因は自分にあると考えたりむりにすきになろうとしたり、馬鹿じゃないのか盗人に負い銭。バカにもほどがある。アサーティブに生きよう。
 アサーティブに生き行動していればうつにはなりにくい。なってもすぐ立ち直る。アサーティブでないと簡単に利益を侵害され、うつにもなりやすい。危害を加えられたり、利用されたりする。差別されたり、迫害されたりする。自分の利益をおろそかにするものは不真面目と見なされ迫害されたりする。自分の利益を守ろう。自分の利益を自分で守れないものはだめだ。あいつらは仕事をしているふりをして私を単に迫害しているだけだ。仲良くする方法などない。なぜ仲良くしようとなどするのか。全くわからない。キチガイで人殺しで人非人なのだ。そんなことを今更指摘しても仕方がない。これだけひどい目にあっても仲良くしようとするなんて頭おかしい。アサーティブに考え行動しよう。自分の利益を守ることを考えれば自然にアサーティブになる。私にもやっと青春が巡ってきた。
 アサーティブはどんな場合にも可能だ。hやkがキチガイであろうと私を眼の敵にしていようと関係ない。殺意を覚える。俺を殺そうとする奴らに殺意を覚える。当たり前だ。殺そうとする奴と仲良くできるか。殺意を覚えるのがアサーティブということだ。


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