希望の日記

2005年09月28日(水) カウンセリング

 今日カウンセリングがあった。前回を引きずっているのか何となく敵意を感じた。私も機嫌が悪くあまり良い関係ではなかった。私が全ての女が嫌いだと言いそれをアサーティブに主張したいと言うとクビになると脅された。脅しは彼の得意技だ。私は引っ込まずに反論した。アサーティブの成果だ。オロロにならないでちゃんとアサーティブに主張した。アサーティブは立場は関係ない。立場を利用して不当なことを要求する理論ではない。真の弱者が、強者に対等に率直に誠実に自己の利益を守るべく主張することだ。だから最も弱い立場にある私のようなものが使うものだ。強者ぶったhやkに弱者である私が物申す。これがアサーティブの真の力だ。北原にも主張した。ほぼ要求通りだった。アサーティブの威力はすごい。全てのコミュニケーションに応用が利く。弱いものこそ有効な柔術のような技術だ。
 私は女が嫌いだ。病的なものだと思う。それはわかっているが、そのために不利益を受けたくない。女を嫌いなことは認めて欲しいが嫌われるのは勘弁願いたい。虫が良すぎるだろうか。女が嫌いなのは病気なのだから、それで攻撃されるのは納得がいかない。女は嫌いだが会社から消えてはなくならない。でも私は必要最小限の接触にとどめたい。それは許される。しかし積極的に危害を加えることはない。そのことにより制裁を受けるからだ。私の言い分は虫が良いだろうか。私も相当に混乱している。私は女を嫌うのは許されるが、女が私を嫌うのは許さない。それが私の理屈だ。いや、嫌ってもらっても構わないが、攻撃するのは止めろといっているだけだ。アサーティブに嫌うということはそういうことだ。私はアサーティブに女を嫌う。女も嫌っても良いがアサーティブに嫌えと言っている。これなら文句ないだろう。好きになれなんて一言もいっていない。好かれたら大変迷惑だ。だから嫌う。嫌っても良いがアサーティブに嫌え。アサーティブに嫌うとは、申し訳なさそうに嫌え、攻撃するな、排除するなということだ。お互いアサーティブに嫌い合うことが望ましい。嫌いなのは確かなのだから、嫌い合うのは極めて自然な正しい状態だ。無理に好きになれとか好きなふりをしろとか強制されるのは病気の元だ。私は関西人が嫌いだ。これまで好きになろうと努力したがやっぱりだめだった。アサーティブに嫌おう。嫌いだけど申し訳ないなと思う。排除しない、攻撃しない。しかし近づかない、仲良くしない。これが望ましい。
 真面目になろう。ここ20年くらいで初めて真面目になろうと思った。人に脅されたからではなく、強いられたからではなく、自分のために真面目になろうと思った。アサーティブとはまず真面目でなかったら話にならない。アサーティブを使って悪事を働こうとか得をしようなんて全く思っていない。虐げられ、踏み付けにされた自分の権利を回復することだ。どんな惨めな状態でもどんな最低の状態でも、どんなに弱くてもきちんと利益を主張し自分を守ることができる。それがアサーションだ。不当に得をすることではない。小説も真面目に書こうと思った。仕事も真面目にしようと思った。あのババアも真面目なのかもしれない。私が不真面目なのを見て真似をしたのだ。それが腹が立つ。私が今更真面目になっても遅いだろうか。そんなことはない。今からでも真面目になれる。ならなければならない。今がそのときだ。本を読んでもすごく良くわかる。人の話も良くわかる。外人の話も良くわかる。ようやく筋が良くなってきた。長い間の努力のおかげだ。アサーティブのおかげだ。アサーティブは力は要らない。無理はしない。人を傷つけたりはしない。今日の主張ももう少しアサーティブにできたら良かった。でもあんなものだろう。あれが精一杯だ。
 アサーティブに女を嫌おう。アサーティブに嫌うとは差別しない。排除しない。嫌がらせをしない。暴力をふるわない。意地悪をしない。攻撃しない。苛めない。バカにしない。むしろ尊敬し、価値を認め、許容し、受け入れ、大切にし、協力し合い、助け合い、仲良くする。でも嫌い。そういうことだ。嫌いなことは変えようがない。見ただけで嫌いだ。近づかれたり、性的興味を持たれたり、恋愛感情や親しみの感情を持たれたりしたらぞっとする。それは女がおじさんに抱いている感情じゃないか。お互い様だ。
 アサーティブとは誠実で率直であることだ。正直であることだ。だから女が嫌いでも一向に構わない。嫌いなのに引きつった笑顔で恐ろしい女を受け入れる必要があるだろうか。全くない。自分が女を好きになるように誘導も説得もする必要はない。アサーティブとは嫌いという感情を大切にすることであって、嫌いな感情を無理やり押さえこむことではない。嫌いという感情をコントロールすることはできるし、不利益を受けないように注意することは可能だ。女もおじさん嫌いなのに適当に利用しながら生きているじゃないか。援交する奴もいる。嫌いでも適度に距離を保ちながら安全に暮らすことは可能だ。
 青春の話をしたらカウンセラーは納得していた。中学以来引きこもっていたが、今ようやく世知辛い世間の方に一歩踏み出したいと考えている。egでもらったエネルギーが私をそちらに押し出しもう後戻りはできない。うずくまろうとすると前よりひどい病気になってしまう。だから前へ進む以外ない。それが青春だ。青春は辛い面がある。辛いことがあるとわかっていても自分を信じて前へ出なければならない。でもそこに甘い青春の味がある。私が味わったことのない甘い味が。あの空港の渡り廊下で味わったあの感覚。やっと私にも青春が巡ってきたと言う。創作に打ちこもう。創作はうつの長い蓄積を昇華するパワーがある。人生にとっては不幸だが、芸術にとっては幸運である。
 これからはうつの怠惰から脱出して忙しい躁状態に移行しよう。もう北原に訴えるこの手は使えないと思う。課長や執行委員に言った時も相手にされなかった。北原は感度が特別高いので言ってくれた。嫌いな相手に自分を嫌うなと言うsm的な態度は一体許されるだろうか。対等であるというのがアサーティブの基本ではないのか。嫌いといえば嫌われるのは当たり前ではないのか。向こうも嫌いだろう。嫌わないということは大事かもしれない。哀れみの感情が大事ではないか。好きになることはできない。でもアサーティブであろうとするならば憐れみの感情以外ないではないか。私も混乱している。混乱したまま基幹職に言っても無駄だと思う。ここをこうして欲しいと地道に言うしかない。苦情を言う。お客が良くやる。苦情だ。苦情を言っているのだ。こんなことをされたとかこんなことを言われたとか。
 私が女を嫌いになったのは○Mのせいだろう。そんなことは女の知ったことではない。大部分の男は正常で女が好きだ。マイノリティーの私を相手にしていられない。だからアサーティブであれということだ。嫌いということはいくつもの偶然が積み重なった特別なものだ。誰も配慮しない。私は細かいことにこだわる。誰もそんなことを気にしない。アサーティブであること、憐れみを持つこと。それくらいしか今の私にはできない。


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