希望の日記

2005年09月30日(金) 日記

 今日は昔書いた日記を全て読みなおした。2001年から書いているが既にその時はババアに苛められていた。足掛け五年になる。そしてこの問題もそろそろ終わりかなと思った。y氏に鬱陶しい感を初めて持ったのはもう必要なくなったと言うことだろうか。それならば傷つけない前に離れたほうが良いのではないか。もう少し様子を見るか。y氏には散々世話になった。今更傷つけ合うのは人道に反する。ところで北原は良い奴だ。優しすぎるくらい優しい。私のためにいるようなものだ。でも客観的に見たら私はいじめられている。足を組むなとか食堂で静かにしろとかセクハラすれすれだ。それでも言ってくれる。それくらいこの職場は荒れている。だからリーダーが必要なのだ。こういう汚れ役を引きうけてくれる。課長にも、執行委員にも断られた。でも問題は厳然と存在する。私が弱いからだめなんだ。それもわかっている。でも苛めが始まったら放っておいてはいけない。斎藤一人の本に書いてあった。絶対我慢してはいけない。今問題は解決しようとしている。足を組むなといってそれを聞くのだから勝ったも同然だ。アサーティブに言うということはこの上なく大事だ。嫌いということをアサーティブに言えるかということでカウンセラーと論争になった。私はできるという。y氏はできないという。よくわからない。アサーティブに好き嫌いはないだろう。アサーティブとは嫌わないということだ。それが最低限の条件ではないか。それは今は可能だと思う。嫌いということの背後には差別とかバカにする気持ちがあることは明らかだ。差別する女と仕事しなきゃいけない、まして馬鹿にするおばさんと。それがこの問題の本質だ。嫌わないが危険は避けたい。女と接すると必ず私の嫌な自体が起こる。だから避ける。それは当たり前だ。アサーティブに断ろう。嫌わないがアサーティブに避ける。難を避ける。
 長い戦いだった。嫌なババアが来た。恐い。嫌いだ。一緒に仕事するのが嫌だ。ババアは私を眼の敵にするようになった。それが苛めの始まりだ。私は恐いので仕事をしなくなった。できなくなったというのが性格だ。ババアはますます図に乗る。差別されたと思ったババアは逆に私を差別しだす。自分が金持ちとか家がすごいとか言い出す。死ね。キチガイは手が付けられない。キチガイはリーダーを仲間にしてかさにかかって私をいじめるようになった。勝ち誇っていた。お上品で弱い私には反撃する勇気も手段もなかった。五年かかってやっと私はものをいう気力が出てきた。抗うつ剤、カウンセリング、心理療法、グループ、eg、あらゆる手段を使ってやっと浮かび上がってきた。それが2004年五月のことだ。gwに俵山温泉に行ったのが転機になった。すごく生まれ変わった。それから2004年10月にまた目覚めた。そしてegに出て完全に生まれ変わった。もう後戻りできないくらい変わった。そして北原に言った。そして少し変わった。席替えもあった。嫌な奴もいなくなった。かなり改善された。そして今回足を組むなと、眼の敵にするなと言った。これで最後だ。大変効果的だった。アサーティブに言えた。だから効果があった。すっかり様変わりだ。最終的な勝利者が誰か良くわかっただろう。これからも北原とタッグを組んで頑張ろう。
 女が嫌いということをアサーティブに言えるかということはこれからの過大だ。私は可能だと思っている。自分に嘘をつくことはアサーティブでない以上、正直に言うことがアサーティブだと思う。でも嫌わないことが本当のアサーティブだろう。それは差別したり、馬鹿にしたりしないということと同じだからだ。アサーティブにいつでも誰とでも話せるという自信があれば女なんか恐くないだろう。嫌いというより怖いといっているのだ。苛められて左遷された。病院でも女が恐かった。会社でも。でもアサーティブに言えれば全然恐くない。
 もう何も恐いものなんかない。女なんか恐いもんか。苛めたりしたら絶対許さない。同じじゃないか。すぐいじめられたといって復讐する。絶対許さない。同じことじゃないか。苛められた私は絶対に許さないからな。アサーティブに行こうじゃないか。全てアサーティブに行こう。平等、対等、率直、誠実。アサーティブは弱者の権力闘争だ。
 万事うまく行くような気がしてきた。創作に打ちこもう。忙しくなる。まだ創作に本気ではない。真面目ではない。真面目になろう。今考えの筋がすごく良い。何を考えても良い筋で進む。驚異的なことだ。自分の行動に自信が持てる。


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