妙な夢を見た。忘れたけど。昨日は掲示板で一騒動あった。他人のけんかは面白い。仲裁するやつも出てきて面白い。でも何も解決しない。勝ち負けは明らかなのに負けを認めないやつ。変なやつに見込まれると災難だ。できればあんな板には出入りしたくない。どんな板でも同じだ。もっとひどいところはいくらでもある。普通の社会とは違う。 昨日はずっと家にいた。自分に過酷な仕打ちだろうか。そうではない。休むべきだ。人前に出たくない心理状態だ。私は社会に害をなすものと見られるようだ。どんな人間だって社会に害をなす可能性はある。あの運転士も一所懸命会社の言うとおり働いていただけなのに多数の死者を出し、命を失った。会社は花も手向けてくれない。会社とはそういうものだ。今は特におかしい。eg以来私は変わってしまった。洗脳された。自己啓発セミナーだ。その頃には保たれていた倫理のバランスが壊れてしまった。新しい倫理を身につけるしかない。前の倫理が持たなくなっていたので仕方がない。新しい倫理を身につけることで環境により適応できるだろう。やっぱり努力は必要だ。 今の問題は基地外が嫌で声を聞いているだけで気が狂いそうでうつになって仕事ができないというものだ。このまま我慢していたら人格崩壊するだろう。その前に自ら薬とegで人格崩壊を招いた。母親も何も言って来なくなった。嫌いだったわけじゃないのにどうしてこうなるのか。ああ、休みたい。一年くらい休みたい。人と会わないで人格を静かに立て直したい。でも今現に生きているからそうも言っていられない。働きながら治すのか。私の倫理はもともと崩壊していた。その私をこの会社は受け入れてくれた。だからその恩義に応えて倫理を確立しなければならない。こうなったら何かにすがるのだ。それがアサーティブであり、論理療法だ。あの本の中にも相当ひどい症例が出て来る。アル中で人格崩壊。それでも何とか立ち直っている。論理療法は信じるに足ると思う。 今日も一日家事で静かに過ごそうかな。私はやはり客観的に見て倫理的でなくなっている。そうすると攻撃される。でもそれで怒るのは不良だったり、やくざだったりということになる。やはり道徳を立て直さないといけないのじゃないか。道徳なんかどうでもいいということにはならない。今は論理療法に従って自分のibを正しながら静かに自分の足元を固めたい。うかうかと出て行くべきときではない。どこへ行っても嫌われるし、いじめられる。倫理的であることは必要だ。あのt氏も作品を書くということで倫理的でありえている。何に対して倫理的であるかだ。 今は本当に人に接したくない。倫理的じゃない状態になっているからだ。働くことさえできない。一からやり直そう。倫理的じゃないから仕事ができない。ものを書くことに対してだけは倫理的になれそうだ。今日も朝からこうして書いている。これはibに囚われているからではない。書かなければならないとは少しも思っていない。書きたいから書くのだ。楽になるからだ。楽しいからだ。 いろいろある。女が嫌いなのはどうしたら良いとか。一方的に無視すると無視されたといって怒って攻撃してくる。恐ろしい。なすすべがない。オニババ化したおばはんに至っては宅間に狙われた子供のような状態で抵抗さえできない。だからアサーティブで抵抗くらいしようということだ。そうした上で女が恐い、嫌いという考えの背後にあるibを正していく作業をする。車の両輪だ。 私は倫理的におかしい。銀行の休職期間が切れたときも銀行と連絡を取っていればこんなことにはならなかった。それなのに父親を責めてしまった。おかしい。完全におかしかった。でも自分を責めるのはやめよう。もう済んだことだ。でも罪は消えない。一生かけて償っていこう。 私が経験したことは、ババアが嫌いでけんかになっていじめられたということだ。ただそれだけのことだ。でももういい加減にしてほしい。私を目の敵にするのは。また別のババアが私を狙っている。 安らかな気持ちでありたい。デパスやリスパを飲んで落ち着こう。外出もせず人にも会わず、家でじっとしていよう。一生そうしていたい。落ち着いてたまった仕事を片付け、内省し、今後を思い、論理療法を行い、アサーティブを学び、文学を楽しみ、小説を書く。人とのかかわりを避け、ひっそりと隠棲したい。それが私には向いている。人が嫌いなのではない。触覚を刺激されたこおろぎは出会ったこおろぎを攻撃する。たぶん私はそんな状態だ。だから人に会いたくない。いつ死んでもいいように安らかな気持ちでいたい。 私は父がそうであったのと同じように一生正気ではないだろう。できたら人を避けて生きたい。どうしても避けたい。人と仲良くできないのはわかる。攻撃的になる。自分に対してさえも。安らかな気持ちになることだ。ヨットに乗ったときにそう思った。 挨拶しなければならないというやつがいるが、ibだ。会社はibを押し付けるところだ。洗脳される。洗脳なき軍隊はないだろう。20年以上かけてありとあらゆるibをインプットされる。私はもうそんなことはあほくさくて付き合う気がしない。というより苦しい。ibは苦しい。 人のibを指摘するのは簡単だが自分が捉えられているibに気づくのは大変困難だ。人に自分のibを押し付けるのに気づいていない。権力者とは自分のibを人に押し付けることができるもののことだ。気が狂っていても構わない。一切の掣肘から自由だからだ。信長や小泉はやりたい放題やっている。人との約束はibである。走れメロス的な。太宰は約束は守らないのにあんな小説を書いた。あいつは一切のibから自由であった。 女嫌いは性的嗜好と関係しているだろうからibに由来する。女には何のことやらわからないだろう。迷惑な話だ。だから私はもう一切言わない。私が女が嫌いだろうと差別していようと、内面に留めておくならば全く自由でとやかく言われる筋合いはない。仲良くしなければいけないというのはibだ。 仲良くできたらいいのに。くらいだったらibではない。人はそれぞれ単純ではないから誰とでも仲良くできるなんてibだ。気が合うなんて会社で2,3人もいればいいほうだ。会社は仲良しクラブではない。競争と支配とibの集団だ。 触覚を刺激されたこおろぎになっているのだ。そういうやつも中に入るだろう。でも強い倫理観で抑制している。スポーツとはそういうものだ。m氏はありとあらゆるスポーツを楽しんでいるが、医者で高い倫理観を持っているはずだ。そうでなかったらあれだけ稼げない。私はそういう自分を律する技術を持っていなのに快楽だけ味わおうとしてもだめだ。それは自滅と蕩尽だ。文学の王道だ。だから今こそ落ち着いて自重することだ。ふらふら世間にさまよい出ないことだ。文校やサークルが楽しくないのはそういうことだ。私には倫理観が欠けている。 まず落ち着いて刺激や快感を遮断することだ。リスパがその役に立つだろう。京都の庭園でも見に行ったらどうどす。何か断定したり結論を求めたり、理由を知りたがったり、分析したり、妄想を膨らましたり、そういう一切は百害あって一利なしだ。虚心にありのままを感じればいいのだ。ibですべてを理解しなければならないというのはやめよう。落ち着いて内省することだ。決して自分探しなどしてはいけない。 自分が今どんな状態かは知ったほうが良いだろう。客観的な状況を。どうして現実から目を背けるのか。大学の頃から、それ以前から私は倫理的ではなくなっていった。病気になった。でもこんな人生だが否定はしないし、後悔もしていない。こんな人間も一人くらいいてもいいだろう。太宰や坂口安吾はもっとひどいことをした。でも私はたぶんこの堅気の世界に踏みとどまりたい。そうであれば過去の行いを悔い改めて正気に戻らなければならない。女遊びをしていたあの頃の狂気がまだ私に取り付いている。それがこの社会で私に違和感を感じさせる。正気に戻り、倫理的になることだ。 落ち着いたほうが良い。脳が興奮しているのだ。その始まりは中学時代で発病のきっかけだった。何とか無事生き延びるためには興奮を抑えなければならない。文学を飼いならすことができるだろうか。無事生き延びたい。天寿を全うしたい。安岡章太郎のように無事生き延びたい。 落ち着いたほうが良い。文校でもサークルでも本当に気味悪がられる。作品を二作発表してやっと理解された。ぱっと見にはわからない。というよりおかしいと思われる。おかしさがとうとう外見や態度に出始めた。落ち着いたほうが良い。 欲望を刺激し、物を買わせ、快楽を追求して生きていく。都会に住む人間はそうだ。私の住んでいる町は都会ではないが。田舎に住んで田舎で働く。働いていないけどね。都会人とは考えが合わない。田舎者なのだ。いつまでたっても適応できない。でも都会に住んでいても掲示板のmさんのように禁欲的に生きてきた人もいる。それは悪いことではない。でもかわいそうになる。もっと楽しめと。最近そうなってきたそうだ。結構なことだ。 北原は無理を承知でグループの環境を整えてくれた。単なるわがままとして通らない。無理を通してくれた。その男気に感謝してついていくことだ。これが最後じゃないかな。一から出直すという意味では。これでだめだったら行くところがない。謙虚にならなければ。幸い環境も整ったし精神的にも成長した。ちゃんと文句を言われずにやれそうな気がする。せっせと小説を書こう。読んでくれる人がいる。幸せなことだ。人が何かをしてくれることを期待してはならない。自分で人に何かしてあげなければ。それが仕事だ。夢や憧れは金を出せば買えるという話に目からうろこが落ちた。稼ぐことが難しいのだ。 疲れた。辛い人生だった。でも希望の光が見えてきた。狂気の中から正気の光が射してきた。自分にどれだけ欠点があろうと、弱かろうと生きていくために主張してよいし、そうしたほうが良い。べきというとibになるが。あまりにもいろんなことを考えすぎて脳が疲れ果てているので、休ませたほうが良い。感覚への刺激を遮断して脳の興奮を鎮めたほうが良い。心理療法はアサーティブと論理療法に限ったほうが良い。心理療法ショッピングはもうやめよう。脳の興奮を鎮めることさえできれば、問題のほとんどは解決する。仕事はその次に考えることだ。文校がなぜ疲れるか。芸術家は物まねがうまい。良いことも悪いこともすぐ真似する。私の悪い点もすべて取り入れて攻撃的なところもすぐに真似して攻撃してくる。心身が持たない。仲良くしようなんて無理だ。私の中には攻撃的な反社会性、犯罪性がある。安らかな気持ちになることだ。それは言い換えれば脳の興奮を鎮めることだ。人と会わないことだ。引きこもっていたのは良いことだった。私には必要なことだった。必要な時間だった。脳の興奮を鎮めよう。小説を書きたいという気はあったのかというとないといわざるを得ない。書ける能力もない。フィクションを書けないのだから小説家には向かない。何のために行っているのか最近わからなくなった。わけのわからない小説を読まされて気が狂いそうになる。これもストレスになるんじゃないだろうか。通い始めてからおかしなことが起こるようになった。おかしさに拍車がかかった。 私が腋臭だろうが、分裂病だろうが、性的少数者であろうがどうでもいいことだ。障害者は生きていちゃいけないのか。人権を守ろう。 最近酒を飲みすぎる。酒量が増えた。ストレスがたまっている。父親もストレスをうまいこと処理できなかったのだろう。酒に逃げていた。私も気を付けよう。 あまり家にこもっていると良くないかと思って外に出てきた。しかしあまり気分は良くなかった。若い娘に目が行くがどうにもならないので目の毒なだけだ。刺激するもの、欲望を刺激するものは良くない。もっと良くなってからでも良い。下流社会という本と島で暮らそうという本を買った。もう本はこれ以上必要ないのに。私は少ないものだけで生きていける。 脳の興奮を鎮めよう。人に会いたくない。本当に会いたくない。掲示板に書き込むのも嫌だ。不意に襲い掛かってくる基地外がうようよいる。どうして人を信じるんだ。そんなおかしなやつら。悪いことをするに決まっているのに。文校でも自分が守れない気がする。組み会も面白くないし、飲み会も同様だ。少し休もうかと思う。刺激はもうたくさんだ。あの薬を飲んだのは本当にまずかった。具合が悪くなった。今自分に必要な倫理を早急に確立しよう。 脳の興奮を鎮めよう。全く世の中と噛み合わなくなっている。脳の興奮を鎮めることができたら正常化するだろうか。それとも興奮したままコントロールしなければならないのかさっぱりわからない。人が恐い気がする。会社に行っても鍼灸院に行っても文校に行ってもサークルに行っても変な顔をされるだけだ。抗うつ剤を飲んだのはさすがにまずかった。脳の興奮を抑えないといけないのにハイになる薬を飲んでしまった。脳の興奮を抑えよう。うつの背後にはibがあるだろう。それを正せばうまくいく。日記に書いていればいいことを掲示板に書くのはやめよう。人は優しくなんかない。自分をこれ以上傷つけるのはだめだ。人はすべて常にやさしくなければならないというibがあるから何度傷つけられても行ってしまう。そんなルールはないのだ。あのおばはんが私をいじめようが咎められるいわれはないのだ。私の父は優しかった。ところが世間はそうではなかった。そこに私の発病の原因のひとつがある。遺伝もあるだろう。脳の興奮を鎮めようと思ったことは大変正しい気づきだ。だから悪い方向には行っていない。正しい方向に行っている。 脳の興奮を鎮めないとまたおかしな方向に行くだろう。おかしなやつらとは付き合わないことだ。人それぞれ個性がある。それぞれibを持っている。それを他人が正すことはできない。私は私のibを正すことができるだけだ。本当に嫌だ。嫌だと感じる背後には何らかのibがある。恐怖や嫌悪感。おばはんは私を侵害してくる。それはibではない。ibは全ての人に好かれなければならないというもの、全ての人を好きにならなければならないというものだ。人とは仲良くならなければならないというib。仲良くできないと思えば仲良くなんかしなくて良い。言うことを聞かないと不利という理由で仲良くする。従順である。女にそんなことを強いてもだめだ。ibだ。人にいつの間にか仲良くするよう強いている。ibだ。私は意外にibから自由な気がする。女と同じだ。女は全く自由だ。昔の女と違って完全に解放されている。私がibから自由になるのに長い時間がかかったが女は初めから自由だ。人を恐れたりすると攻撃してくる。自分が強いと思い込む。しつけのできていない犬と同じだ。kやhと同じだ。私がibに囚われているので他人にも強いてしまう。 脳の興奮を鎮めないといけない。文校で気味悪がられたのは脳の状態が普通でなかったからだ。芸術系の人々はそういうものを見抜くのがうまいのだ。ものすごく引かれていた。人を必要以上に恐れてはいけない。嫌ってもいけない。ibに囚われている。それをひとつずつ解きほぐすことは良いことだ。がんばろう。私は精神障害で何もできなくなってしまった。だからせめて小説くらいうまく書きたい。ある程度めどはついた。がんばるだけだ。あの基地外は私の悪い点も全てコピーする。人間コピー機だ。自分の醜い自画像を見せられているみたいでぞっとする。それがわからないのだろうか。あいつのだんなはどうやって耐えているんだ。信じられない。人を恐がったりしたら損だ。つけこまれてしまう。そんなことは当たり前のことだ。 ほんとあの掲示板はやめたほうが良い。最初から嫌だったし、今も嫌だ。ほかの連中は皆顔見知りなのに、私一人知らないのだから入っていってもだめだろう。自分を大事にしなければいけない。今こそ自重しよう。自分を大事にしよう。新しい出会いなんかより、安全第一だ。文校も嫌になってきた。ババアがいじめる。どこでもババアだ。嫌われると怒って攻撃してくる。黙ってセクハラに耐えないといけないのか。おかしいじゃないか。アサーティブに行こう。さわやかに自己実現しよう。恐くなんかない。嫌なことを嫌というのは恐いことなんかじゃない。 ほんと基地外ばっかりだ。自分を大事にしないといけない。もう文校やめようかな。あんなき地外ババアにいじめられるのは嫌だ。私が行くようなところではないのじゃないか。もっと自分を大事にしたほうがいいんじゃないのか。ババアはほんとに嫌だ。何で嫌がらせをされなければいけないのだ。全くわからない。完全におかしい。あの頭おかしいババア氏ね。 自重しよう。脳の興奮を鎮めよう。日記の書き込みもおかしいんじゃないのか。脳の興奮を高めるのではないか。ほどほどにしておこう。日記だとどうしても自分の独り言だから独善的になってしまう。そうかと思うと自虐的になったり、攻撃的になったりする。止め処がなくなる。大変危険だ。人の本を読んだほうがまだましだ。 ババアが嫌いとか女が嫌いとかhが嫌いとか言うのは相当やばいところまできている。どうしてここまできているのに放っておいたのか。普通嫌いでも態度には出さない。それが出てしまうということはおかしい。掲示板のあの基地がい野郎みたいに。態度に出す出さない以前にそういう気持ちになることが問題だ。そこを何とかしたほうが良い。 日記やめたほうがいいんじゃないのか。どんどん心が悪くなっていくのじゃないか。例の人の日記を毎日読んでいるが、誰のために書いているのかわからない。自分をさらに傷つけているような気がする。でもそうせざるを得ないのだろう。そうしないとおかしくなりそうなのだろう。リストカットみたいなものだ。論理療法やアサーティブはアメリカ人が考えたものでわかりやすい。 論理療法とアサーティブを実際に実践してみよう。私は他人とどう接してよいかわからない。だからもう全面的に他人の考えを受け入れよう。もう自分の力では無理だ。強さが残っていない。他者との接点に論理療法とアサーティブを使おう。
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